これまでのコラム@
         (中略あり)

     

          

       
思い込み? 感動してますか? 爪弾き カウンセラーの資質
韓流ブーム 少年犯罪 心の平穏 温暖化の危機
夢には意味がある!? 感謝 9.11 個性について
子どもの犯罪から見えてくる サンタクロースがやってくる 鬱にはならない 曖昧な記憶
癒し これからもよろしくね♪ 認めてもらえない子供 義父の死から
リニューアルに向けて カウンセラーという立場から いじめ 私の罪
親子について 生き急ぎ 自殺の背景 もったいない
ハーブで楽しむ♪ 居場所がない 斎藤茂太さんの名言−1 夜の光景
30代からの更年期 自分を育てる 斎藤茂太さんの名言−2 河合隼雄さん逝く
弟よ 心をかけて、手をかけない 楽しむこと ふさわしい横綱
本気になって遊ぶ 言葉のもつ意味 自分本位 生きる力



生きる力
久しぶりに長い夏休みを頂きました。
旅行にでも行きたいところでしたが、今回は地元北海道へ里帰りすることに。

二年ほど前、妹が癌に侵されていると知りました。しかし今は早い時期に癌が発見されることで、生存率はとても高くなっています。お蔭様で順調に回復していった妹でしたが、最近また怪しい影が発見され、再発かと気が気ではありません。

そんなこともあって、再び入院するかもしれないということで、今回は向こうでゆったりとした時間を久しぶりに妹たちと過ごしてこようかと思っています。

5年前に旦那さんを亡くし、まだ中学生だった娘と2人で二人三脚でがんばってきました。娘は高校に入ってから毎日のようにアルバイトをし、母親を支え、その妹も回復と同時に二つの仕事を掛け持って今までやってきたのです。

そんな矢先の怪しい影…困ります。
妹曰く、「どんな結果でも自分はそれを受け入れ、癌と闘うよ」と言っています。いつからそんなに強くなったのでしょう。

守るものができると、人は強くなると聞いたことがあります。
また、目的があるとそのために生きる希望が出てきます。自分はみんなに支えられて生きているのだと知ることで、本当の感謝が生まれます。

命を無駄にしたくない。
そうした思いも、いろいろな体験から実感できるのだと思います。

命を粗末にする人は、そんな心の支えを実感できずにいるからなのでしょう。
生きたくても生きれない人がいる。
それは分かっている。しかし、実感できない。生きている意味が分からない。

それはどれだけ不幸なことでしょう。
それでも私はいつもこう思うのです。

もう少し生きてみよう。自分が不幸だと思うなら、何か人の為になることで、何かが見えてくるかもしれない。それからでもまだ遅くはない。

例えば、朝早くにゴミを出しに出かけてみようか。
隣のおじいさんが、ゴミを出しにいくのを辛そうにしていたら、自分がついでにゴミを出しに行ってあげたらいい。

そんなことでも誰かの為に役に立っている。
「ありがとう」と言われ、何だか気分が良くなっていく。

人と人とが繋がった。たったそれだけのことかもしれないが、何かの役に立つというのはそんな何気ないことから始まります。

役に立っている。感謝される。→ 生きていることへの実感。
感謝は生きるための大きな勇気と希望になるのだと。

私は時々クライアントさんに感謝されることがありますが、本当は私が一番に感謝しなければならないのは私のほうなんですね。私がこうして仕事をしていくことができるのも、クライアントさんの支えがあってです。
     
なので、いつも私たちは支え合い、お互い様で生きているのだと実感するのです。またそれを支えてくれるダンナさんも然りです。

「生きることが辛い」と言ってお終いにするのではなく、小さなことでもいいから自ら何かの役に立ってみましょう。するとそこから何かが変わっていくと私は思います。

生きていることもまんざらでもない。
それを実感してからでも遅くはないですよね。

生きる力は黙って人に与えてもらうものではなく、自らの行動が生きる力を生み出すのだと常に私は思います。

ふさわしい横綱
今旬の話題として、大変注目を集めている朝青龍。
問題が複雑化していくと、根本がなかなか見えにくくなるものです。そんなことからよりシンプルに考えてみてみると、大変興味深いことが見えてくる私です。

どうしてこうなってしまったか、もっときちんと一から考えていきましょう。
あんなに強い横綱として、一線をずっと引っ張っていった人です。それがどうしてこうなってしまうのでしょうか。

強いからこそ横綱としてここまで来たのではないでしょうか。
どんなに日本文化や相撲という競技を知らない外国人でも、ある程度は勉強をして入門してきたはずです。

「心技体」は相撲の中では最も大切なこと。
体が丈夫で大きくて、勝てれば何でも許されるというものではないですね。それはきっとモンゴル相撲でも同じこと。
品位や貫禄、人としての強さを要求されるスポーツではないですか。

横綱にふさわしい人とはどういう人でしょうか…。
人には間違いというのがあります。間違った時、それを訂正し、反省してより横綱として強く成長していくことだってできます。

もしその力がないのなら、横綱としては向いていないということになるのではないでしょうか。


今回精神科医や主治医による診断が間違っているとは言いませんが、なんでも病名を付ければいいというものでもありません。精神的に参っているのだから、故郷に帰らせてあげてほしい、というのが悪いといってるのではありません。

なぜ、相撲協会がこのスポーツの伝統的な意味と深さ、横綱としての義務を彼に伝えないのでしょうか。

本人が拒んでいるからそれに従うのでは、私には相撲の行く末が心配でなりません。どんなにうつの状態であっても、横綱として病気を治すことがまず第一であることは明白。

それを本人の自由にさせているのは、ただの「甘え」でしかないと私は思います。帰国してどうするのでしょう。両親に会い、友達やみんなと会って癒されることはできても、根本の理解がなくてはまた同じことをするでしょう。

自覚とはなんでしょう。

自分はどれだけファンの人たちに支えられ、強い横綱として賞賛を浴びてきたことでしょう。

引きこもって、そこからは何も発信してこない。それでも許される環境。それって一体なんでしょうか。

自分が置かれている立場をどう考えているのでしょう。

私は心理カウンセラーであるがゆえに、なをそうした「甘え」には敏感です。
精神疾患を煩い、社会で生きていく事に苦痛を感じている人が数多くいます。それはそれは大変な生育暦や数々の悲痛な体験の中から、何とか生きていこうとしている人たち。

それとはまったく違う、朝青龍の態度はとても不審に思えます。
どんなに辛いといっていても、私にはただの「わがまま」にしか受け取れません。


朝青龍の今回の騒動は、自分がまいた種です。
周りに恵まれ、賞賛され、恵まれた体とたくさんの報酬。もちろんそのため鍛えなければならない苦労は多かったと思います。

しかし、それを自ら選び、そこに飛び込んでいった本人の意思と自由は彼の責任です。

そして、骨折しているという理由で巡業まで休み、相撲を裏切って自国の国で悪化させてしまうかもしれないサッカーを楽しんだ彼の責任です。

その責任をとりなさい、ということで下した罰を呑み込むことができず、それに従わないという判を押したようなものです。

そんないい加減な横綱に私は同情ができません。

二場所出れないからってなんですか。
その後はまた相撲をとることができるではないですか。
好きなことが一生できないわけではないのです。

そんなことで精神を煩ってしまうような横綱なら、横綱を辞退したほうがずっと身の為だと思います。
自分には自分に合った身の丈というのがあります。

無理をしないで、自分にふさわしい生き方を選んでいくことはとても大事です。朝青龍が弱い人だというのではなく、このままでは横綱にはふさわしくない人だと言われて当然だからです。

人間は調子のいいときは幸福感を味わい、辛いことは忘れます。
でも辛い時期を乗り越えてこそ、人は成長できるものです。それがなくては人は強くなれないし、成長もできないと思います。

あんなにも長い時間を費やして、朝青龍の動きを報道をしているメディアにも呆れるところがあります。

うつにようやく寛大になってきた日本ですが、それとこれを混同してしまっては誤解を生む危険性も出てきます。ただのわがままとうつは、まったく違うところにあります。

それを見極める精神科医やカウンセラーの力が問われています。
横綱にふさわしい人とはどういう人か、それをもう一度考え直すときではないでしょうか。

河合隼雄さん逝く
河合隼雄さんが先日亡くなりました。
彼の訃報は私には大変ショッキングなことでした。

今回のコラムは河合さんの人柄について、また私が大きく影響を受けた言葉の数々を語っていきたいと思います。

箱庭療法を日本に初めて取り入れたのは河合さんでした。
日本人の繊細な心というのは、欧米式のカウンセリング方法では難しいと素早く判断をし、日本人には日本人に合ったカウンセリング方法があるという考えをお持ちでした。

数学の教師をしていたときに、教えることの喜びと同時に、子供の心にある問題が、授業の意欲と大きな関係があるということにも着目したといいます。それは数学では割り切れない難問でした。河合さんが心理学に興味を持ったきっかけだったようです。

数学の教師として退き、アメリカに渡り、スイスの心理学者、ユングの分析と考えに深く興味を持ちました。そこでは徹底した自己分析をさせられたそうです。

河合さんは恵まれた明るい家庭で育ち、好奇心旺盛な両親の元、特に母親の影響はすごかったようです。時代が時代であるだけに、貧しいながらも明るい家庭。最近評判の、「がばいばあちゃん」?のような元気な人だったのかもしれませんね。

河合さんの人柄を見ていると、いつもニコニコと大きくうなずきながら、人の話しを楽しそうに聞いている姿が印象的です。謙虚でユーモアがあって冗談が好きで、自分を飾らない河合さんの人柄は、家庭環境における影響が大きく反映されたものであると感じます。

充実感とけじめとしつけ、そこで得た子供時代の体験が、十分安心できる場であったことは間違いないでしょう。

人は子供時代を十分に生きられることで、大人として成長していくといいます。年は取っても子供や物や地位に依存や執着している人は、十分な子供時代を生きてこなかった人だとよく言われます。

確かにそうですね。
依存は子供が元々するもので、それがなくては子供は生きていけないわけですから。親に依存しないで子供は何を安心として生きられるというのでしょう。

子供は親に十分依存し、安心して、信頼を得、満たされることで、大人としてのステップが踏めるのです。それは他の動物を見ていてもよく分かりますね。人間だけが特別ではありません。人間も自然の生き物の一種であることには変わりません。

もちろん、宗教的な見方をすれば反論もあって当たり前だと思います。
でも原点は、この世に生を受け、生活の中から知識は習得していくものです。最初は誰もが無垢であるということですね。

親の背中を見て育つ。
子供にとって親は最初の見本です。何でも親の真似をしたがる時期がありますね。子供はそれを習得し、知識を得、徐々に成長していきます。

家族の中で学ぶものは計り知れません。

河合さんは子供のカウンセリングを重点に、登校拒否の問題も大きく掲げていました。いち早く子供のカウンセリングに目を向けていたのも、河合さんのすごいところです。

教育問題など今では当たり前に取り上げられていることですが、もう数十年も前から教育に関して危険信号を投げかけていて、その根底の部分で、親子関係、家族関係についての今を、かなり懸念されておりました。

古い書物から、改めて読んでみても、今に活かされるものばかりで、なぜこうした本がもっと教育現場の人たちに読まれないものかと疑問に思うほどです。

晩年は文化庁として活躍されていました。カウンセリング現場からは身を引きながら、毎年のように講演や本も出版されていました。時々テレビで拝見することもあったり、元気でいる姿をブラウン管で見た最後は去年の始め頃?だったでしょうか…

今年は私にとって大きく影響を受けた、大切な二人がこの世を去っていきました。精神科医である斉藤茂太さんもその一人です。

お2人には実際お目にかかったことはないにも拘らず、もう二度とお話を聞くことができないというのは、やはりとても寂しいものです。
身内の死と重なるように、今年はこうして訃報が次から次へと続きました。

私のHPで、河合さんが書かれた本の中から一つの文章を紹介していますので、ぜひこちらも合わせて読んで頂ければと思います。これは大人へのメッセージです。

そして、河合さんが残した私の大好きな語りがありますので、ここで紹介したいと思います。

「恋愛、夫婦、家族、仕事などで悩み、ゆらぎ、決断のポイントのような、いわゆる「時期」がきますよね。
そんな時、一般的な解答はない。右が良くて左が悪い、これが正しくあれは間違い、というような「絶対正しい答え」というのはないと、僕は確信しています。
絶対正しい答えがないから、人生が面白いんじゃないでしょうか」

「大切なのは、どんな道を選ぶにしても、「私はこうしました」と言えるやり方で選んだかどうかだと思います。
それをみんな、ついつい「正しい」のはどれだ、と探そうとするから結局「私」がなくなってしまう」

「いつも絶対正しい答えが決まっていて、いつも絶対正しいほうへ行っていたら、「自分が生きた」といえないでしょう?
それは「絶対正しい」というセオリーが人間の顔をして生きて動いているわけでね」

「あの生き方もある、こちらもある。しかし私はこう生きるというところで、人は自分を生きる。
そこにその人のクリエーション−−−創造性が入る。個性が入るんです。
どの方法が正しいのか、間違っているかではない」

ご冥福を、心よりお祈り致します。

夜の光景
日中では決して見ることのない、夜にはまた別の光景があるものです。
日中は何かと会社で忙しく過ごしている人や、夜の静けさが好きな人は、夜に散歩をしたり犬と散歩をする人もいるようです。

ただ外の空気を吸いたくて外に出てくる人、星空を見たくて外を眺めている人、一日の生活をいろんなスタイルで楽しんでいます。

先日、遅くまでやっているスーパーに買い物にいく事にしました。天気もいいし、せっかくだから星空を眺めながらゆっくり歩いて行きました。

その途中で、家から出てくる男性が、犬を連れて散歩をするところに遭遇しました。きっと日中は好きな犬を連れて散歩できないのでしょう、静かで人通りも少なくなるので、絶好な時間のようです。

買い物を済ませ、またゆっくり歩いていると、また家から出てくる男性がいます。タバコをくわえながらじっと星空を眺めています。家の中ではタバコは厳禁なのかもしれない。至福の時なのかな?

私はいろいろ想像しながらそんな光景を眺めていました。

夜に女性一人で散歩するのは今では危険ですね。私はジーパンと長袖のシャツ、帽子を深くかぶって変装気味で夜は出かけます。男なのか女なのか見た目は分からないような格好です。

先日、そんな格好をして帰って来たとき、偶然に隣のご近所さんが家から出てきて一瞬躊躇しました。挨拶するべきか、しないべきか、ばれてるのか、ばれていないのか、ここで挨拶しなければ、何かのときに私だと分かったら、怪しまれるかもしれない、そんなことが一瞬のうちに頭を駆け巡りました。

「こんばんは!」と、私。「あっ…こんばんは」という声。どんな表情をしているのか全然分かりません。「この時間は涼しくて、風が気持ちいいですね」とまた私。「そうだね」と返って来る。(私は歩きながら)

とりあえずは挨拶はした。私のことが誰かは分からなくても、一応言ったぞ。そんな満足感で家に帰りました。その後、隣のご近所さんとは会っていないのだけど…

時々日中もそんな姿で自転車で出かけることがあります。急いでいる時はいいのです。私と分からないので声をかけられることもないのでね。ところがついこの間、信号を待っていると、横から入ってきた中年男性が、私に頭を下げて知ってる風?に挨拶をするのです。

???誰だっけ?…どうやら誰かと勘違い?すぐに信号が青になって逃げるように自転車をこぎました。何も逃げなくても…と後で思いましたが。

しっかり変装していると思い込んでいるところがあるかもしれませんね。実は丸見えですよ、なんて思われていたらショックだな。
そうそう今回のコラムは「変装」がテーマではありません。

最寄の駅前にはよく出かけます。夜はまたやはり別の光景があります。こんな店があったのか、と改めて知ることが多いです。なので夜の繁華街を歩いてみるのもとても面白いですね。

昼間では決して見つからない建物を発見し、ちょっと得した気分になったりして。家を引っ越す時は日中だけではなく、夜の駅前や近所を散策してみて決めるといいかもしれませんね。


ところで以前隣に住んでいたご近所さんは、子供が夏休みに入ると子供の友達の家族を呼んで、夜の7時ごろから外でパーティーをしていました。正直それがとてもうるさかった。

中庭がないので、我が家のまん前です。周りに笑い声や子供の騒ぐ声が響いていました。年に一度だけということもあって、毎年ご近所からクレームもなく、楽しそうに堂々と騒いでいましたよ。

それって本当は近所迷惑?だよね。
引越しの時は何も挨拶がなかったです。やっぱり…

夜どうしても眠れないという人は、ちょっと変装して?散歩に出かけてみてはいかがでしょう。長い夜だから、楽しみ方もいろいろです。昼は昼の、夜は夜の楽しい過ごし方ってあるものですね。

そうそう、夜散歩をするなら、女性はヒールの靴は控えたほうが…あれって結構響きます。(痴漢防止のためにも)

もったいない
梅雨入りしたのに晴れ間が続いたり、なかなか梅雨らしい気がしませんね。
今年の梅雨は短いともいわれ、梅雨らしい日はそう多くなさそうですね。

ということは、水不足が予想されるので、早くから節水を心がけていかなくては。今年に限ったことではなくて、温暖化の影響を食い止めるためにも、節水と節電はセットとして考え、毎日の生活でこれから重要になってきますね。

私はボヤっとしていることが多いので、買い物にいくのにも、ついエコバッグを忘れてしまいます。これでは何の意味もないので、いかにそうしたことが当たり前の習慣になっていくかが私に問われているのです。

こうしたおっちょこちょいは、なかなか直るものではないので、目に見えるところにいつも意識させておく必要があるようです。覚えの悪い頭で、いかに習慣を叩き込むかかな?

どんなに頭の悪い犬でも、諦めないでしつけをしていけば、いつかきっと習慣が身につくのだと誰かが言っていたのを思い出しました。

人は変わりたいと思えば、諦めないで根気強くやっていれば変われるのです。犬に褒美をあげると、喜んでしっぽを振って芸を覚えますよね。自分にも何かいい褒美?でもあげるとか、エコバッグを持たないと買い物に行けない状態を作り出せればいいのですね。

いろいろ大変だけど、いつかは当たり前のようにエコ生活が送れるよう、頑張るとします。

近年になって、盛んに環境問題について取り上げられるようになりました。
このコラムでも取り上げたことがありますが、実際はどれだけの人が真剣に対策を考えて行動しているのか、実のところまったく分かりません。

個人から始めていくことはとっても大事だけれど、本当は国をあげて本気になって対策をしていかなければならないことですよね。

平均気温が2度上がるだけでもものすごいダメージを受けるといわれているのに、何かそうした危機感が私には感じられなくて、ちょっと寂しいとすら思います。

最初にダメージが来るのは農家でしょうね。
自然の恵みを受けなくては生活は成り立たなく、それは消費者にも連動しているのですから、ものすごい食糧難で私たちの生活も相当苦しくなるはずです。

あのお米騒動からずいぶん経ちますが、タイ米産が日本人の口に合わないなどといってられなくなるでしょう。たったの2度、されど2度です。ま、実際そうなったらタイ米すら口にできなくなるのです。

そんなことで、今回は環境問題をコラムにしていますが、何だか腑に落ちません。政府と国民の感覚のズレがありすぎて、エコ生活を送っていても、政治家たちは高い電気代がもったいないなどと考えてもいないようで、のうのうと税金の無駄遣いをし続けているのですから。

時々爆発して「デモでも起こしたるか」なんて、言いたくもなりますって。
日本人は元々争いごとを避けたがるところがあるようで、悪く言えば他人事であり、良く言えば我慢強い、ということになるでしょうか。

でも我慢強さもほどほどにしないと、爆発した時は大きいですからね。
昔からお役所と一般人は違う土俵で生きてきて、価値観や生活観の大きなズレはなかなか縮まることがありませんでした。

それは時代が変わっても、やっぱり同じです。いつの時代も上になる人は、自分の地位を確保することに一生懸命で、本来不向きな人がリーダーとして選ばれ、世の中を動かすわけですから、国民にとっての本当の平和なんてなかなか実現できないわけですね。

半分諦めの気持ちを持ちつつも、せめて最低限不安のない世の中にはしていただきたい。裕福な生活は望まないけど、安全と安心は確保してほしい。そんなことすらものすごい大きな望みなのでしょうか…。

選挙で選んでいるのは私たちです。
そういう意味では私たちの責任も大きいと思いますが、選挙活動している人に対しては信頼をもって選んでいるわけで、そこにはいつも希望をもって「何とかしてくれるだろう」という願いで投票しているのです。

環境問題からずれてしまいましたが、年金問題もいい加減に取り扱われていて、そこで環境問題のことでいくら問題定義をしてみても、政治家が動くとは到底思えないのです。

政治家への信頼を失ってしまった以上、この未来に希望はなくなってしまいました。私たち一人一人が小さな幸せを大切にしながら、いま自分の生活をなんとか確保していくしかもう残されていないのだと。

地球温暖化が進んでいます。
地球を守るのは私たちの義務です。一人一人が何か行動を起こすことで、速度はずいぶん抑えられるはずです。

もう政治家を当てにするのではなく、私たちがもっとプラス思考に切り替えていくことができれば、もしかして何かが変わっていくかもしれない。そんな望みをもっていくことも大切なことのように思います。

まずは節水と節電、そして無駄遣いを減らしていく。
「もったいない」を心がけていけば、希望はまだもてそうです。

私の罪
さて今回のコラムは何にしようか迷いました。
コラムには決まったテーマがないため、何を書いてもいいということもあって今回はちょっと自分のことを書いてみようかと思います。

自己紹介の中では一切語ることのない話ですが、カウンセラーの私は若い頃からカウンセラーを目指していたわけではありませんでした。

よく子供の頃から、「何々になりたい」と目標をもっている子ってすごいなあって思います。実際私には、なーんにもありませんでした。

私の子どもの頃は、すぐ下に妹がいて、親はその妹に手を焼いていたため、私は姉で、自分のことは自分ですべてしなくてはならなかったという記憶だけです。構ってほしい時に構ってくれなかったので、かなり寂しかったんでしょうね。

妹に嫉妬しながらも、外でいろいろ発散していたようです。

最近古いアルバムを見ていると、小学一年生の入学式の写真が見つかり、学級全員と親たちが並んで映っています。

私は一番前の椅子に座っています。あどけなさそうな顔をして、一体何を考えていたのか、ボーっとしたおすまし少女。
そしてふと隣に目をやると、そこには私がその頃よくこっそり突っついていじめをしていた男の子が座っているではないですか。

私、いじめてたんですよね。その子に。
子供なりのストレスを、その子に向けていたんですよね。
今になって考えると、顔から火が出るほど恥ずかしいことだし、その子に申し訳なくて…。

その男の子はものすごく静かでおとなしい子で、決して逆らうことなどしなかったのです。それをいいことに、チクチク私はいじめていたのです。

なんとひどい子でしょう!

そこでその時の心理状態をいろいろ考えてみることができました。
絶対なのは、「私より弱いものへ」向けた依存的なものだったということです。

そんな心理状態を抱えたまま、小学三年生になってクラス替えがありました。その子とはそれでサヨナラです。サヨナラしたのに、それからというもの、その子と顔を合わすことができず、避けて避けて廊下を歩いていたことをしっかり覚えているのです。

やっていたことが子供なりに「悪いこと」というのはきちんと知っていて、その罪の意識にさいなまれてしまったのです。

小学校時代は私にとって決して楽しいものではありませんでした。

いつも何かに追われているような、落ち着かない日々を過ごしていたように思います。

罪の意識というものは、ものすごいストレスになります。
された側はもちろんのこと、していた側も同じように大きなストレスとなって、その後に大きな影響を与えているのです。

今いじめの問題が社会問題にもなっていますが、された側だけではなく、していた側にもきちんとした理由があってそうなっていることも、しっかり見ていてほしいと思います。

というのも、いじめをしたら、何か罰を与えるのがいいという話も出てきています。それはもっともなのでしょうが、まだ親の影響を強く受けている子供時代において、罰を与えるということは、傷口に塩を擦り込むようなものだと私は思っています。

自分の体験だけで言ってるのではなく、臨床してきた数々の人たちの罪意識はすごいものです。大人はなかなかそれを理解できず、その子だけに罪をかぶせようとする傾向があるのでそれが怖いです。

せめて小学生の低学年においては、まだまだ家庭環境にあって起こる、子供の心理は常識だけでは片付く問題ではありません。

心づかい、思いやり、優しさなどというものは、本人が体験できないことには、それを他者に対してできる行為ではないということです。

大人になっていく過程で、私は自分の心理状態にいつも罪の意識があることに気づきます。

それがなんなのか、まるで見えないものを手探りでかき回しながら、ずいぶん自分を傷つけてきたのだと、今になって思います。

それは親に対しての憎しみであったり、自分に対しての憎しみであったり、何かモヤモヤしたものがいつもいつも私の中にあったと思います。

そんなことから私は心理学を学び、カウンセリングの門をくぐりました。
そこに至るまで、長い道のりです。すでに35歳をとおに過ぎていたのですから。

罪の意識を抱え込んで生きているということは、決して自分を受け入れていないということになります。
私は今では罪だという認識はありません。子供だった私は、それしか自分を表現できなかったのだと心に治められます。

親もそうでした。若かった親はまだ未熟で、私のことまで手が回らなかったのだと。できなかった人、気づくことができなかった人を憎んでみても、何の解決にもならないと知りました。

「気づき」は大きいです。
私はカウンセラーになってからもなを、毎日のように気づかされ続けています。

小さい頃なりたかった職業がなくても、人はいつ、どこで、何のきっかけで変わるか、また、どこで出会うか、どのように軌道修正していくかは誰にも分からないことだと思います。
     
ちなみに、私はいじめられたこともあります。
私の場合、いじめられたことよりも、はるかにいじめたことへの記憶が強いのは事実です。

もちろん人によって、どれほどのいじめを受けたかによって、ずいぶん記憶の強さは違うでしょう。それは当然だと思います。

どちらも子供にとっては衝撃的な出来事として、一生残る心の傷であることには間違いありません。

親や大人はそのことに十分な配慮をしなくてはならないと強く実感しています。

子供はいつの時代も大人の犠牲となる弱い立場です。
そのことをぜひ理解するよう、どんなことをしてでも努めなくてはなりません。
それが大人の「重大な責任」だと思います。

義父の死から
5月に入ってから今日までに、次から次へといろいろなことが起こりました。そのためすっかりコラムもご無沙汰状態でした。

義父の突然の死、それにまつわるさまざまな手続き等、親戚との打ち合わせや病院関係から葬儀の手配まで、やらなければならないことがすべて初体験。そんな状態ですから肉体的にも精神的にもクタクタになっていたダンナさんと私。

それでも何とかなるもので、気がつけばあっという間に葬儀が済み、親戚の協力もあってずいぶん助かりました。

そしていろいろな人に支えられているのだなあということを、切に実感した数日間でした。

いまや警察や病院での不祥事が多く目立つようになりましたが、今回当たってくれた方々には大変快く接していただき、とても感謝しております。

義父が自宅で亡くなったため、何人もの救急隊員がやってきて、蘇生のための処置を最後まで諦めることなく必死になって取り組んでいただきました。

警察が来てから事情聴取をきちんと取り、侵入者はいなかったか、さまざまな角度から死因について調べておりました。家中の中を捜査されましたが、それも仕方がないことだと思っております。

今では老人の虐待も多くなり、後に事件であったことも多く報告されるようになってきましたのでね。
次の日に義父の死因がはっきりし、少しホッとした私たちでした。
肺結核による呼吸不全であるということです。

初めてダンナさんの親戚とご対面しました。こんなことがなければもしかして早々会う機会などないのでしょう。不思議なものですよね。

緊張の連続であり、気疲れという体験をしてすっかり疲れ果て、まるで別世界の中へ迷い込んでしまったかのような錯覚に陥ったりして。

そして久しぶりに胃が痛くなり、「私絶対無理してる」て、自分で自分に喝を入れながら、必死に自分をなぐさめながら、その場を何とか乗り切ることができました。

私は小心者なんだよなあって思いながら…
というわけで、最初は誰でも初体験。最初から何もかも上手く出来るなんてことはないのです。

そういう自分を許してあげることで、後半になると、意識的に肩を抜いてリラックスしながらみなさんとお話が出来ていたように思います。

義父の部屋の後片付けをしていたダンナさんが、父親の一番最近の履歴書を発見しました。それを見ていると、最後に務めていた会社でアルバイトをしていた時に、肺を悪くしたようです。

シンナーや塗料を毎日のように吸い込んでいたのだから、元々結核を患っていた人にとっては致命的だったのかもしれません。

そこに勤めていなければ、今頃まだまだ元気でいたことでしょう。
火葬場で焼かれた骨はとても丈夫でしっかりしたものでした。
元々体のがっちりした人で、体力的にはとても健康的な義父でしたので。

今でこそ、ずさんな管理の下で社員が健康を害い、訴えるケースが増えてはいますが、一昔前までは、自己責任として処理されていましたので、今となっては涙を呑むしかなく、ただただ残念でなりません。

不思議なもので、こうしたことを機に、ダンナさんの親戚との付き合いが始まりそうです。先日も、お礼を兼ねてよく協力して頂いたおじさんに、ダンナさんがお土産を片手に挨拶に行ってきました。

というのも、何日かして、義父の部屋から遺言書が出てきて、「親戚との付き合いをタ大切に」と書かれていたのです。

人との繋がりは、大きな支えになります。
それは親戚だけには限らず、友達や兄弟、近所の人たちなど、ちょっとした心づかいができれば、結局何かあったときには自分も助かります。

そして、それは逆もありで、それぞれに私たちは支えあって生きているのです。
人はひとりだけでは決して生きてはいけません。

どんなに頑固で意地を張って生きようとも、誰かの支えがなくては生きていけないことをきっといつか知るでしょう。

人はいつか必ず死にます。
それだけは防ぎようのない真実です。

義父の死から二週間が過ぎました。
今ようやく、義父のガラーンとした部屋で手を合わせ、心静かにした時、思い出が蘇えってきます。

飾られている写真はとてもいい笑顔で写っています。
こんなにいい笑顔で2人でお話ししたこと、ありませんでしたね。

照れ屋さんだったので、仕方がなかったかな。
でも、私が話しかけたら、いつも笑顔で見ていてくれるからすごく嬉しいです。

ありがとうございました。お父さん。
そして、長い間お疲れ様でした。ゆっくりお休みください・・・

曖昧な記憶
記憶というのは曖昧なもので、思いだしてみると、そんなことがあったんだなあって、まるで自分ではない他の人が体験してきたことのように感じるものです。

そうした感覚になることありませんか?
先日も、旦那さんが十年以上も前に一緒に出かけた場所のことを言われたとき、もう本当にしばらく考え込んでしまいました。

なんとなく…行ったような…でも、思いだせない。
ものすごく曖昧で、旦那さんには申し訳ないけれど、どうしても思いだせないのです。

その時私は何を見、何を感じていたのだろう…。
きちんとそこまで電車で出かけ、何か目的があって行ったはずなのに…
その目的さえもハッキリせず、旦那さんもそれを思いだすことができなくて、ただ行ったことだけは覚えていたのです。

私たちも出会いから16年目になりました。
色々なところに出かけました。あまりの数の多さに記憶することもできなくなってしまったのでしょうか。

それでも最初の頃から今までの記憶の中で、ものすごく記憶として残っていることもたくさんあるのです。それは何がそうさせるのでしょう。どうでもいいことと、そうではないことを瞬時に頭の中で、記憶場所として選んでいるとでもいうのでしょうか。

そんなに器用なものなのですかね。
でもそうとしか思えないような感じさえするのです。

今では当たり前のようにカメラをもって出かけていますので、写真を見ればすぐに思いだしますが、当時は旅行意外にカメラを持って出かけるなんてことがなかったため、唯一記憶しか頼る方法がないわけです。

思いだせないなんてもったいない。今ではどんな小さなことも、記憶として大事にとっておきたいなと思うためか、頭に浮かぶのが、「もったいない」なのです。


私は年とともに、生きていることが楽しいと思えるようになりました。そして、年をとることが楽しみになってきています。

生きてさえいれば何とかなるし、若い頃、「幸せとは?」の追いかけっこに四苦八苦していた自分とは、想像できないものを今感じながら生きているように思います。

若い頃人生は、ものすごく長く感じていたものです。
しかし、今になって、なんと短いものかと思います。

一つ一つの出来事が、段々貴重になってくるものです。それも心のモチベーションなので、一人一人違うでしょうが、今頃になってやっと「幸せ」という意味が理解できたと思っています。

過去にはたくさん忘れてしまいたい記憶というのがあると思います。
そんなことをしていた自分がまるで別人のようで…
それでも、人はそこを通って行かなくては今の自分がなかったわけです。

どんな過去であったとしても、そのときの自分も私。それしか考えられなかった自分も私。そして今、しあわせだと思えるならすべて良し、と思えます。

記憶が曖昧で思いだせないなら、無理に思いだそうと頑張らなくてもいいかな…それよりも、1日1日をこれからもっと大切に生きていくほうが大事だね。

過去は変えられないけど、これからはいくらでも変えられるし、記憶だってもっとこれからしっかり刻んでいければいいものね。
    
人は元々曖昧な生き物だと思います。
「これしかない!」ということは決してありませんね。
どれか一つに決めたり、これしかないと思い込んだり、そうしたことばかりやっているから窮屈になってしまうのでしょう。

曖昧な部分があるから人は謎だらけで、面白くて、好奇心がでて、何だろう?って考える楽しみがでてくるもの。

曖昧さを楽しむことができたら、もういうことありません!

でも、物忘れや最近のことを忘れてしまうのはまた別です。老化によるものなので、何とか頑張って思いだすようにしなくては…と必死です。

個性について
緑が眩しく感じられる季節になりました。
花屋さんの前を通ると、いい香りがしてきます。いつの頃からかものすごい種類の花々が見られるようになりましたね。

そうそう今日道端を歩いていると、桜が満開になっていました。
花見の宴会ももうピークです。散り始めた桜も多く、少しずつ寂しくなってきましたね。

今年に入って体調を崩すことが多くなりました。このコラムもとても久しぶりです。身体が思うようにいかなくなると、ふさぎがちになりますが、その度にいろんなことを勉強させてもらっている感じがします。

よくこうもいいます。
痛みを知らなければ人の傷みは理解できないものだし、苦痛を感じなければ人の苦しみも理解できないもの。
ただ何を苦痛と思い、何を痛みと感じているかはひとりひとり違っています。

以前にも書いたことがありますが、
その人にとっての苦しみはその人だけが知り得ることで、なかなか他人には理解されないことがとても多いと思います。

感情もエネルギーも、ひとりひとりもっている個性です。
その個性は何かで図ることなど決してできません。Aさんはこれだけのことができるけど、Bさんはこれしかできない、という人がいますが、それはエネルギーの違いであったり、感情の違いであったりそれぞれです。

数学が得意としている人がいて、それを当たり前のようにスラスラ解けたとして、それはその人の個性であり、スラスラ解けない人がいて、その人もそうした個性であると考えたとき、どちらが素晴らしいのかと考えるのはおかしなことです。

感情は、やりたいか、やりたくないか、興味をもてるかもてないかと関わってくるからです。

楽しいと思う感情と楽しくないと思う感情は、ものすごい差です。
それを無理に楽しみなさいと押し付けることは、個性を認めないといってることと同じだと思います。

また、数学は無理でも、絵を描くことがとても楽しくて得意としている人がいます。数学は解けるけれど、絵が苦手で楽しめない人は劣っているというのでしょうか。

そのように、個性をいいか悪いかで図ることなど誰にもできないようです。
得意不得意は個性です。
人を理解していく過程で、もっとも大切な最初の部分がそこにあると私は思っています。

感情とエネルギーはその人だけがもっている個性的なものです。
その感情はどこに向くか、そのエネルギーがどこへ向けられるかによって、ひとりひとりの個性が光っていくのだと思います。

ここで話している感情とは、怒りや憎しみのことではありません。
興味や楽しみを感じる部分のことです。そしてエネルギーは量と質の違いのことです。

人を理解しようとする時、大概のところで親や環境によって受けてきた価値観で図ろうとする無意識が働きます。
それはほとんどの人たちが無意識に行っていることで、そこに気づいていることと気づいていないことではものすごく違ってきます。

どんなに健康的な家庭で育ったとしても、親の影響によるものがとても大きいのです。どこかで価値観による思い込みが出てきてしまいます。偏りが出てくるのは当然のことで、何の不思議もありません。

完璧な人なんていませんし、間違ったり失敗しながら人は成長して行くので、恥ずかしいことでも決してありません。
私は人は失敗するから成長できるのだと本当に心からそう思います。

失敗もせずに成長していけたら、ここでこうして生まれ、生きて行く意味すら感じられないのではないでしょうか。人は元々失敗しながら文化を築いてきたのですから。失敗しなければ、ここまで文化は発展しなかったともいえます。

いいか悪いかは別として、生活に必要な便利さはとてもいいものです。
その変わり他のことができるし、余裕が出てきて心にも潤いが出てくるというもの。

でも、必要以上に便利に寄りかかっていると、今度はただの怠け者になってしまい、エネルギーは別の方向へ向かって行きます。そこが現代病として抱える大きな問題なのだと思います。

先日、障害は「個性」として受け止めることが大切だと、スピリチュアルカウンセラーの江原さんが言ってました。

それにはひどく感心させられました。
障害が個性として捉えるならば、得意不得意も個性であり、好き嫌いも個性なのです。

まとまらないコラムとなりましたが、これまで「自己受容」について私は話しているようです。
ここまできたので、次回はその「自己受容」について、もっと深くお話をしていきたいと思っています。

温暖化の危機
暖冬で桜の開花もかなり早まりそうです。

その暖冬の影響もあってか、体調のすぐれない日が多かったように思います。例年より花粉は飛んでいないにも拘らず、花粉症になった人が増えているという報告があります。

ということは、何を表しているのだろうか?
量ではなく、質の問題に何か変化が起こっているのかもしれません。そんなことを考えると、私たちの見えないところで、もっと微妙な環境変化が…起こってる?

先月は、今いるはずのないバッタを庭で目撃しました。
道端で、ゴキブリが死んでいるのを見かけた人もいます。

それに、この冬は、数日ほどしか暖房を使っていません。耐え切れる寒さなので、返って暖房を入れると暑いくらいですからね。

まだまだあります。毎年足暖房を使っているのですが、今年は一回しか使っていません。足冷えのひどい私は、これが欠かせないのですが、まるで必要ありませんでした。

もっと驚いたのは、スキー場をオープンできずに春を迎えたところがあるそうです。雪不足は深刻です。

札幌の雪まつりも、雪不足のためトラックで運んでいましたからね。
このまま温暖化が続くと、毎年楽しみにしているイベントさえできなくなります。

日本には四季があって、その季節季節の楽しみがたくさんあります。
あるはずのものができなくなったり、季節の風物詩を楽しめなくなったり、食物が採れなくなったり、そうしたことが本当に起こってしまいそうな危機感があります。

平均気温が2・3度上がるだけで、私たちの暮らしは大変なことになるといいます。お米の国日本が、米不足になり、東北では栽培できなくなるかもしれません。

海水気温が同じように上がることで、魚を食べることもままならなくなります。エルニーニョ現象が多発し、雨が降らなくなったり、逆に大洪水になったりということが起こり得ます。

南極の氷がものすごいスピードで融け始めていて、砂漠地帯が秒単位で増えているという。どうして今になって急激にこうした情報が流れ始めたのでしょう。

実はもっともっと以前から予想できていたことだったはず。
それとも、ここまでは予想ができなかったのでしょうか。人が統計を考えても、そこまでの勢いで進んでいるとは予想外だったことなのでしょうか。

のんびり見過ごしてきた「つけ」が、こんな形になって現われてきたようにも思います。危機感に対してあまりにも深刻に受け止めな・さ・過・ぎ・ではなかったのか。

京都議定書のなかで、こうした温暖化対策が深く議論されていないのが不思議でなりません。アメリカは車大国です。もっともCO2を排出している国ともいえます。

その国が、未だに京都議定書に加盟していないのはどういうことだろう。
中国だって、ものすごい勢いで車社会と化しています。発展途上ということで、CO2をどのくらい減らすか、という国に定められていません。

そんなことを通していたら、地球はますます破滅の道へと向かうだけです。「自分だけは大丈夫」という甘い考えでここまで来たのですから。

この問題を深刻に受け止めないのであれば、最後はあの「猿の惑星」の映画のようなラストシーンが待っているだけです。死ぬ時は地球上の人間すべてがいなくなってしまうのが一番いい終え方でしょうか。

猿や熊やイノシシの出現に驚いているばかりでは済まされません。
人間の起こしてきた「つけ」は、もっともっと予想をはるかに超えた被害を被ることになるはずです。
          
森林伐採、CO2排出によって、地球を破壊してきた人間です。
せめて、私たちができることから地球を守るための手だてはあるに違いない。
それを信じてできることから始めていかなくてはならないと思います。

それが、ひとりひとり恩恵を受けてきた人間の義務ではないでしょうか。
手をこまねいて見ていることは、自分の親や子供が水の中で溺れそうになっているのを、助けずに見ているのと同じくらい無責任に思います。

飛び込めば助かるかもしれない。人工呼吸で助かるかもしれない。浮き輪を投げれば助かるかもしれない。何か自分にできることはきっとあるはずです。

温暖化を遅らせる道がきっとどこかにあると信じ、また今日も明日も生きていられることを願います。希望が唯一大きな心の支えです。

カウンセラーの資質
自分自身の中でいつも迷いがあったり、自己分析がきちんとできていない人が、カウンセラーになりたいと言って資格を取ろうと頑張る人がいます。

カウンセリングを勉強することは、生き方においてとてもいいことだと私は思っています。しかし、資格を取って、人のカウンセリングをするのはまた別の話です。

それを安易に考えて、カウンセラーの資格を取る人が結構いるので驚きます。また、そうしたシステム事態が放置されているのにも驚くばかりです。

カウンセラーは誰でもなれるものではないと私は思っています。
なぜなら、他の資格とは違って技術や技能だけで身につくものではないからです。

人には向いている職業というのがあって当たり前で、まして心理カウンセラーはとても特殊な職業であるため方法論だけでカウンセリングはできないというのが私の自論です。

誤解されないためにここで言わせてもらうと、カウンセラーはまず人に対して好奇心と興味がないとできない仕事です。そして精神的忍耐力と人の心を読み取る力も必要です。

例えば、自分自身が様々な体験をしてきたという人生経験だけで、人の悩みを理解できると中には思い込んでいる人がいるため、妙な自信をつけている人がいます。

それはとても危険です。
自分が経験しているのであなたの気持ちが理解できる、というのも思い込みです。それだけでカウンセラーとしてその資質があると判断してしまうのです。

大事なことは、私生活においても、自分自身についても安定を保たれる環境と自己分析ができていなければ、カウンセラーとしての資格はないと私は思っています。

どうして自分自身が不安定な状態のまま、人の心の悩みについて添うことなど出来るでしょう。

そうした行動や不安定さはすべてクライアントさんに見抜かれてしまいます。そんなに甘いものでは決してありません。ただ「うんうん」聞いていればいいというものでもないし、自分の覚えている知識でアドバイスをすればいいというものでもありません。

まさに、「今ここ、この瞬間」、カウンセラーはクライアントさんの心に共感できなくては、ただ話しを聞いていてもクライアントさんには理解してもらえていない、とすぐ気づかれてしまうのです。

カウンセリングは信頼関係がなくては先へ進めません。
それは自分自身の事を考えたとき、他人に自分の心の内のなかを、心を割って話せるかどうか問うてみるとよく分かります。

人はついこうしたほうがいい、ああしたほうがいいとアドバイス(指示)をしたくなるものです。そんな自分がでてきたら、それは相手をきちんと理解できていないのだと思ってみることです。

どうしてもアドバイスをしたくなる人は、カウンセラーには向いていないと思ったほうがいいでしょう。なぜなら、その相手の良くなりたいという力の芽を摘んでしまっていることに気づいていないからです。それは、相手を信じようという気持ちがないことが原因で起こっているのです。

その気持ちは相手に伝わります。アドバイスをすることで疎外感が生まれます。

カウンセラーは繊細な心の部分と触れさせていただいている仕事です。
ですので、時にはちょっとしたことで傷つくことがあります。それにいかに耐えられるかもカウンセラーの資質の問題です。

もしクライアントさんを傷つけてしまったら、それはカウンセラーのすべての責任です。

そのためにも、日頃からのしっかりした自己分析がなくてはならないし、冷静さと客観性、共感性、柔軟性が問われるのです。

そうした資質はカウンセラーの免許を得たとしても、誰もが身につくものでは決してありません。偽者のカウンセラーはたくさんいるかもしれませんが、本物のカウンセラーはそう多くはいないと私は思っています。

私がこのような話しをなぜするかというと、カウンセリングにはとても重大な問題があると感じているからです。時にはそれは凶器にもなり得るからです。

心理学を勉強することで、人の弱みにつけ込むカウンセラーもいます。それは金儲けだったり、脅しであったり、未熟なカウンセラーだと、しつこくプライベートな部分にまで入り込んできてしまう迷惑なカウンセラーもいます。

私もまだ未熟な部分はあるかもしれません。
だからこそ、日々成長していくために、毎日のようにクライアントさんの分析、そして自分への問いかけと自己分析をし続けています。ちょっとでも怠ることは許されない仕事であると、この仕事に私はプライドをもっています。

そして、そうした忍耐力がカウンセラーにとって大切な資格であり資質だと思います。それができないのであれば、カウンセラーは向いていないのではないか、と自問自答してみることも必要ですね。

自分本位
過去をさかのぼって考えてみると、今の時代ほど不安な時代はないように思います。もちろん生活が安定していなかった時代には、たくさんの苦労がひしめいていました。

それでもこれほど「心の病んだ」時代はあっただろうか、と振り返って思う私です。いつからだろうか、何がきっかけでどうしてここまで自分本位なものの見方に変わってしまったのだろう。

そんなことを今週のテーマにしてみました。

一月に入ってから、あまりにもたくさんの事件が続いています。
たった一言で切れてしまう、むしゃくしゃしたから、日頃からの恨み、そんなことが事件の発端となっている。

たまたま運がよく、人を殺さずに、あるいは殺されずに済んでいる人を入れ、そうした予備軍といえる人たちは、きっと予想をはるかに越えるだろうと私は思います。

自分本位な考えで生きているから、人為的事故も起こるし、不正も働くし、悪徳商法にも騙される。それは自分だけが楽をして、自分の利益だけしか考えられないことで起こるのです。

人には誰でも欲求をもっています。
食欲、物欲、性欲などが主にあげられますが、そこに、支配欲、獲得欲が底辺部分に潜んでいると思われます。

支配欲や獲得欲には明らかに自分以外へ向けられる欲求であり、そこの部分が大き過ぎると自分本位の行動になってしまうのです。

ではなぜその部分が大きくなってしまうのかです。
人は生理的な安全を確保できると、次に精神的安全を求める心理が働きます。生理的安全は、例えば戦争などで難民になったり、生きることに必死な場合、物を盗んででも命をつなごうと生理的な欲求が働きます。

死なないために何とか生きのびようとする心理であり、反応です。
それが満たされることで、次に精神の安全が欲求されます。脅かされないことや不安がないことを求めます。

これも必然的に求められるものであり、そのために家族を作ります。安定を確保するという心理から生まれてきたものなのだと思います。

その家族の中で安定感を維持できればいいのですが、次にくる欲求が、自己欲求といわれる、存在の価値です。
それが「愛」なのかもしれません。

ここからは人間だけしか持たないであろう欲求です。
この部分が十分に必要です。存在の価値は、「愛」と大きく関わってきます。ここで存在価値が証明されず、自己欲求が満たされず、不十分に終わった場合、支配欲と獲得欲が大きくなると思われます。

心理学者マズローは、人間には五段階の欲求が潜んでいるといいます。しかし、私の示したこの部分の欲求が人間にはもっとも困難な部分であり、次に行く段階においては危険が伴うことです。

赤ちゃんや子供を見ているとよく分かります。
赤ちゃんは生まれてすぐにおっぱいを探し、吸うことを知っています。本能です。これは生理的欲求です。そして親の表情をじっと見ています。あやすととても喜び、そこに自分の安全を確保しようとする欲求が出てくるのです。その対象が親です。

他人に抱っこされて泣くのは安全を脅かされたからです。それから少し大きくなると、自己の欲求が出てきます。その自己欲求を満たすためにわがままなことを言ったりしたりするのです。

そこでその子の価値を認めてあげなくてはなりません。褒めること、抱きしめること、何より、「あなたはとても大切な人」であると、子供の存在価値を認め、安心させてあげることです。

それが十分に満たされていくことで、次のステップに行くことができます。
すなわち、自立の一歩が踏めるということです。

話がそれてしまいましたが、「自分本位」の背景に、こうした段階途中で失敗したことが大きな要因になっているのではないかと考えられます。

では、なぜそういう人たちが増えてきているのでしょう。
大人になってなを、欲求し続けるのはどうしてなのでしょう。

まず増えている要因には、豊かさがあげられると思います。
大体のものは自分の手に入るし、そこそこの暮らしを誰もが送れる時代です。快楽や満足を得ることが難しくありません。

そういう意味では、欲求心理は十分に満たされていると考えられますね。
それなのに、もっともっと幸せになりたい、もっといい暮らしがしたい、そして、たくさん送られてくる情報の中で、より高い理想をもとめ始めるのかもしれません。

今生かされているということだけには、もう十分満足できなくなるのでしょう。
団塊世代の人たちは、経済成長と共にいい暮らしが当たり前に手に入るようになりました。

その暮らしをこのまま維持して行きたい、子供には何でも与えてあげられる、好きなことをしてもいいのだと放任になることで、あまり子供と関わらなくなったり、自分も好きなことを自由に楽しむ権利を獲得し、家族関係が軽薄になっていったのではないだろうか。

しかし、そこに最も人間が必要としているものが家族の中で消えていったとしたら、それはもしかして機能不全状態になっているのかもしれません。

何不自由のない家族の中で起こる事件には、そんな背景があったのではないのだろうか。

人は、愛されることで、愛することを覚え、思いやりを受けることで、思いやる心が育ちます。人には体験したことのない感情しか人の心は育ちません。後は、それからの体験が自分を育てて行くことはできても、一度育った感情意識を別のものに変えて行くことは非常に困難となります。

自分本位を作り上げる背景が、ひとりひとりの家族の中で作り上げているとしたら、大人の責任はものすごく重大であることが理解できると思います。

次に、大人になって様々なことを体験し、多くの知識や知恵を学んできているはずなのに、なぜ自分本位でしかものごとを考えられないのか、と疑問に思う人もいると思います。

しかし、先ほど書いたとおり、一度育った感情意識はなかなか変えられないのが人間の弱さでもあります。本人の自覚がないまま長く生きていたとしたら、そのものごとの受け止め方も、みんな自分本位の考えに結び付けてしまう傾向があるのかもしれません。

私はこういう人たちがこれから益々増えていくだろうと予想しています。
ということは、これからもなを、こうした事件が増えていくことになるということです。

せめて、自分がその危険を受けないための対処法くらいは身につけていなくては、あなたも巻き込まれてしまうかもしれません。自分の発した言葉で相手を傷つけることは、誰にも起こりうることです。その人がたまたま自分本位の人だったら、大変なことになりかねません。

そして、人と関わる時は、相手の人格を傷つける言葉は決して言ってはいけません。それはあなたの身の為です。

言葉は、あるときは人に感動を与えるものですが、あるときは凶器にもなりうることを、心しておくべきだと思います。

楽しむこと
遅れましたが、今年初のコラムです。
今年もどうぞよろしくね!

今年初は、どんなコラムを書こうかと悩みました。去年は暗いニュースばかりだったけれど、スポーツの世界ではワクワクさせられることばかりでしたね。いいことと悪いことが見事に共存していた一年でした。

すでに今年になって暗いニュースが飛び込んできましたが、1回目のコラムでは、やはり希望のあるコラムから入りたいなあと思い、いろいろ考えました。

私はカウンセリングの中で、いつも『楽しむ』ことをテーマに取り上げるのですが、これって本当は誰でもできることなんですね。楽しむ心は、本人次第で自由にいつでもどこでも楽しむことはできます。人に与えられないと楽しめないということは決してありませんね。

よく人は、もしこうだったらどんなに幸せだろうとか、あなたがもしもう少し優しかったらきっと私はイライラしないのに、とか、もっとお金持ちだったら、私は苦労しなかったのにとか、親がもっと愛情をもって接してくれていたら、私はひねくれなかったのに、とか、大変多くの条件が付けられないと楽しむことができないのは、とても残念なことです。

自分の考える理想が揃っていなければ楽しめないというのはとてもおかしなことだと思います。それなのに、人は条件を出し、それが叶わないことをいつまでも悔やんで今を楽しめません。

特に家庭をもち始めると、その理想は更に広がり、相手や環境に様々な条件付けをすることになります。

時が過ぎていくと、それはなかなか叶わないものだと知り、叶わないことに対して怒りとなって、不満となって、子供やパートナーにそのイライラをぶつけ始める。どうしてそんなにイライラしているのか、周りも相手も分かるはずもない。なぜなら、それは本人の心の中で起こっていることだからです。

親は夫婦同士、会社や人間関係で、子供は親のせいで、どうしてそんなに相手に求め続けるのでしょう。小さい子供にとって親の影響は計り知れません。しかし、大人になっていつまでも理想を求め続けていては、今を楽しむことなんてできるはずもありません。

私は楽しむことは無条件だと思っています。
借りてきた楽しみは本当の楽しみではないからです。楽しむためには、叶わないことをいつまでも悔やみ続けるのではなく、「諦める」ことで希望が見えてきます。

人は諦めきれないから悔しいし、諦められないから過去を引きずるのです。諦めきれないからそんな自分に腹が立ち、相手にイライラし、楽しむことができないのだと思います。

それらの条件をどうして手放すことができないのでしょう。
手放せば解放され、自由になり、今すぐに楽しむことができるのに。

叶わないことをいつまでも引きずっているのは、それこそこの世で一番「無駄」なことだと私は思います。体験や経験に無駄なんて決してないのだと私はよく言います。でも、叶わないと知っていて、それをいつまでも手放せずにいることは、本当に時間の無駄ではないでしょうか。

人には平等に与えられているはずの1日24時間が、その無駄なことで楽しめていないのは、とても悲しいことです。

今年、またたくさんのニュースが起こるでしょう。予想はできます。
不幸な事故、辛いニュース、政治問題について様々なことを考えさせられるでしょう。

それでも、私は私の愉しみを見つけ、楽しんで生きて行きます。
周りの影響を受けず、引っ張られずに、自分自身を楽しむことができたらとても幸せなことです。

いつか私にも不幸が訪れるでしょう。その時私は悲しみにふけることでしょう。それは私自身の問題です。それは周りの人たちには何も関係のないことです。

是非みなさんは私に関係なく、楽しんでください。
楽しむことに条件など必要ありません。私はそう思います。

斉藤茂太さんが話していた、「諦めることで次への希望が見えてくる」ことを、私も大にして言いたいです。

希望は光です。
誰でも気持ち次第でもつことができるものです。
自分自身が元気で笑顔で楽しく生きているのであれば、それは十分に人の癒しになれます。

自分に「何ができないか」ではなく、「何ができるのか」がもっとも大切なこと。
そして、それは相手に対しても同じこと。
人や物事に条件をつけず、自分が幸せになることはいくらでもできます。

その希望が今日本人にはとても大切だと私は思います。

斎藤茂太さんの名言−2
『ものごとは必ずよい面と悪い面が半分ずつだ。陽があれば、その影になる部分は陰。陰陽は常にセットになっていることを忘れないでおこう。』

『雨の日に、「雨はゆううつだなぁ」と考えるか、「これでむし暑さもおさまる。ありがたい」と考えるか。考え方をほんの少し変えるだけで、その日一日の心情が180度変わってしまうのだ。』

斎藤さんはものごとの受け止め方次第で、人生の生き方は大きく変わっていくことを常に説いていらっしゃいました。
私は何度も何度も斎藤さんの言葉を噛みしめながら、どれだけ生きて行く指針になったことでしょう。

人が変わるということはすごいことです。
でもいろいろな角度でものごとを見ていく「勇気」を持つことで、案外すんなりと人は変われるものだと思います。

別の視点から離れて見てみることのなかなかできない人がいます。見てみたい、どうなっているんだろう、という好奇心のない人たちだと思います。先ほど書いたように、いろいろな角度でものごとを見るには「勇気」が多少必要だからです。

もし角度を変えて他の世界を知ったら、今まで自分が当たり前と思っていたものが、崩れていくかもしれないという恐怖があります。

自分はこんなことでずっとカッカしていたのに、それがいかにばかばかしいことだったかと知れば、何もかも今までの自分を否定しなくてはならないと思うのです。人の心はそれほど複雑に妨げるものを抱えているのだということですね。

斎藤さんは、どうせ人生なんて一回限りでお終い。
ならば、人生楽しまなくてどうするんだ?というわけです。
人間にはたくさんの引き出しがあって、考える力があるのに、なんて損なことをしているんだ、というようなお話しをします。

『性格とは、固い(不変の)部分と、環境要因などで大きく変容する(可変の)部分の両方から成り立っている。明かるいとか暗いとかは、気の持ちようや、ものごとの受け止め方、生きる姿勢といったほうがよい。
ある程度は自分でコントロールできる部分なのだ。』

性格とは、もって生まれた気質や特質によるものであり、その半分以上は環境によって形成されていきます。
ということは、斎藤さんがおっしゃったように、性格は絶対変わらないものではなく、気のもち方、ものごとの受け止め方でいくらでも変容できることが分かります。

斎藤さんはまだまだたくさんの名言を残しています。
90過ぎまでお元気で、子供のように好奇心旺盛な方でした。

でも斎藤さんが一番みんなに伝えたかったのは、「あなたは幸せに楽しく生きたいですか?」の問いかけではなかったのかと思います。誰もが望むことであり、誰もがそうである人生を生きたいはずです。

ならば、ものごとの受け止め方を変えていくことでそれは叶います。ということに他なりません。

最後に斎藤さんが人生を楽しむための秘訣をズバリ!

『いつでもモノを見るアングルを自由に変え、見慣れたものからも新しいおもしろさを発見できる能力。これも人生を楽しく生きるために、ぜひとも磨き上げたいものの一つだと思う。
人生成功の秘訣は人生を楽しむこと。その楽しみとは、自分の足元にいくらでも鉱脈を広げているものなのだ。
人は人だ。どんなに人をうらやましがったところで、しかたない。それなら、自分の手の中にあるものをもっと愛したほうがよい。』

いかがですか?
あなたは環境が変わらなければ自分は変われないと思っていませんか?
あなたは人が変わってくれなければ自分は変われないと思っていませんか?

環境が変わっても、ポジティブな捉え方ができなくては心は不幸のままです。
人が変わっても、自分がものごとをマイナスにしか捉えることができなければ同じことです。

人生は、自分のものごとの捉え方次第でいくらでも楽しめるものです。
それが斎藤さんの大きなメッセージでした。

斎藤茂太さんの名言−1
自分で自分を評価できなくて、どうして長い人生を生きていかれるだろうか。自分は自分自身の最大の味方であり、最高の評価をする人間でありたい。』

先日お亡くなりになった、精神科医・斉藤茂太さんの言葉です。

『トラブルに遭遇したら、「人間的に一段階ステップアップするチャンスなのだ」と前向きに考えよう。常に前を向いていれば、前途のかすかな光明も、大きくとらえることができるものだ。』


私もよく使っている言葉です。「ピンチはチャンスだ」と斎藤さんはおっしゃっていました。実はこの言葉にはものすごい深い意味があります。ピンチがチャンスになるなんてどういうことだろう、とそのまま捉えたら、理解できないかもしれません。

しかし、人はピンチがやってきたときこそ、いろいろなことが学べるのです。
平穏無事に何事もなく通り過ぎて行く人生は、またそれで幸せかもしれません。

でも人は、様々なことを学びながら成長していく生き物です。トラブルやピンチにならないと新しいアイディアも必要なくなります。必要のないことには人は動かないし、考える力も宿りません。

だから人はピンチになったとき、初めて考える力とアイディアが出てくるのです。

斎藤さんは人間関係においてもこのように話していました。

『誰かが失敗したなら、その本人を入れて、失敗の原因について大いに語り合ったほうがよい。このとき、間違っても相手の人格や人となりを攻撃しないこと。失敗と人格はまったく別次元の話だ。
ほめ言葉には、相手のやる気を呼び覚ます不思議な力が込められているものだ。』

人がついやってしまいそうなことですね。
恋人や夫婦がうまくいかない理由は、こうしたことが原因なのでは、と私は考えます。失敗の原因について探るとき、その人の人格について攻撃しても何も解決にはなりません。ある意味では、それだけは決して言ってはいけないことだと私は思います。親しき仲にもそうしたルールは絶対に必要です。

人には最低限のプライドというものがあり、それが自分にあることを本当は知っています。であるならば、相手にもそのプライドがあって当然です。自分にはそのプライドが大事なのに、相手のプライドを傷つけることが平気ではあんまりですね。

『人間である以上、多少の好き嫌いはやむを得ない。だが、好き嫌いを善悪や、価値の高い低いに結びつけるのは避けよう。』

これも斎藤さんがおっしゃっていた言葉です。
ひとりひとりそれぞれがすでに個性のかたまりです。
好き嫌いがあり、得意苦手があるのも当然。それを、善悪や価値の低い高いに結びつけて考えると、そこから差別が生まれます。

人と人は違っていて当たり前、という認識の欠如からくるものです。
自分自身を受け入れてほしかったら、自分が相手を受け入れることが大事です。それができなくて、自分の意見だけ認めてもらおうとするのはただのわがままです。

ある人が、彼女はこうしてくれなかった、ああしてくれなかったと嘆いているのは、自分がその相手に温かい言葉をかけてあげていなかったからに他なりません。自分がそれを望むとき、自分は相手の望むことをしてあげただろうかと考えてみるといいですね。

斎藤茂太さんは、実に多くの名言を残されています。
今回はほんの一部分ですが、また次回ご紹介していきたいと考えています。

ご冥福をお祈り致します。。。

自殺の背景
生きてさえいれば何かいいことがある。
今の苦しみが永遠に続くのではない。それは人生を生き抜いた人間にはよく理解できることだ。

生きてさえいれば…
確かにそうかもしれない。なのにどうしてそう考えられなくなってしまうのか。

借金をして、もうどうにもならなくなる。誰にもそのことを打ち明けることも助けを求めることもできない。もしそんなことを打ち明けてしまったら、人に軽蔑され、馬鹿にされ、駄目人間にされて自分が保てなくなってしまうと考えるのかもしれない。

生きてさえいれば…
そんなことは分かっている。きっとみんな分かっている。それでも命を絶つのはどうしてなのだろうか。

学校で無視される。学校で冷やかしを受ける。気持ち悪い、臭い、あっちへ行け、数々の罵声を受ける。今日も明日もその次の日も、日ごとに心はズタズタになってゆく。

それでも、
生きてさえいれば何かいいことがあるから、と人は言う。
助けを求めればいいのに、と人は言う。学校に行かなければいいのに、と人は言う。何も命を絶たなくても何とかなったのではないかとみんなが言う。

しかし、それができない子が自ら命を絶つのである。
それは弱いからではない。その子にとっては「今」がひどく苦しく死ぬほど辛いのだ。

借金を抱え込んで自殺する。リストラされて自殺する。伴侶に先立たれて自殺する。

そして人はこう言うのです。
生きてさえいれば何かいいことがあるのに、どうして死を選んでしまったのかと。死ぬ気になれば何だってできるじゃないかと。

子供の自殺も大人の自殺も、根っこのところで共通した何かがあるのかもしれない。それを知ることは大事なことです。

これ以上親には迷惑かけたくない、という子供もいれば、死んで自分の保険金で何とかやってほしいという大人もいる。

恨んで死を選ぶものもいる。
あなたのせいで人生はめちゃくちゃにされた。さんざん恨み辛みの遺書を書いて死んでゆく。

自ら死を選ぶものにはそれぞれの理由があり、人には知り得ない「意味」が隠されている。それが何であったのか、そこを紐解いていくことが残された者の課題ではないだろうか。

人はいきなり死を選ぶのではない。
そこに至るまでにはかなり長い時間積み重ねてきたストレスがある。

いろいろなことを想像し、どうして自分は気づかなかったのだろうと後悔する。でも、私はそれはずるいなと思う。側にいた人が、どうして気づかなかったかが理解できない。先程もお話したように、人はすぐに死を選ぶのではない。その間、異変に気付かなかったというのはあり得ないことのように思う。

いつもと何かが違うはずです。
顔色が悪い、食欲が落ちている、行動に変化がある、声の調子がいつもと違うなど、よくよく観察していたらその変化に気づくはず。

それが分からないのは、ちゃんと見ていないから、対話をしていないから、相手に対して気にかけていないからである。

未然に防げることはあるはずだ。
言動は自分が感じるように人は感じていないことが多い。傷つきやすさは人によって違う。その自覚が足りなさ過ぎることがいじめにもつながり、側にいる者の責任にもつながると私は思います。

いじめ
今週はやっぱりいじめについて語らせてもらいます。

最近毎日のように「いじめ」による自殺が取り上げられています。その度に学校側はなかなか認めようとはしません。子供のいじめについて正面から向き合おうとはしません。きちんと確認できないまでは、それによる自殺と決めるのはどうかということなのでしょうか。

ではどのようなことがいじめによる自殺と断言できるというのでしょう。
遺書を残し、それによって死を選んだことは明白です。誰が何を言い、あからさまにひどいことが行われていなきゃいじめではないというのでしょうか。

誰の目から見ても、これは絶対いじめだと判断できなくてはいじめとは言わないのでしょうか。いじめは本人が感じる心の痛みです。それは何かによって図れるものではありません。

傷つき度はひとりひとり違うのです。
それは環境や性格によって違うものです。
育った価値観も生まれ持った気質もひとりひとり大きく違います。

子供をしっかり観察していくと、みなそれぞれに必ず個性があると分かります。大声で笑う子、クスクス笑う子、冗談が好きでユニークな子、真面目で神経質な子、それは赤ちゃんのときからすでに現われているのです。

テキパキ動ける子、ゆっくりで慎重な子、そうした子達が学校の中でコミュニケーションをとっているのです。
ということは、それほど違うもの同士がのびのび楽しく生きていく場であってこそ、人を人として尊重できるのだということです。

学校も社会もそうであって然りです。
相手のことが分からないから人はもっと歩み寄り、コミュニケーションするのです。
では上手くコミュニケーションできない子はどうなるのでしょう。

そこでいじめが生まれるのです。
先生や大人が自分と相手はいろいろなところで違っていることを教えていかなくてはなりません。

それはとても根本的な部分です。
そして傷ついた心は人には理解されないことが多くあります。

しかし、その子をきちんと見ていたら、その子がどんなことで傷つき、また苦手としているかが理解できるはずです。親でさえ、自分の子を理解できない人が増えてきているのにはガッカリしますが…。

学校側がお話していることは、そうした目に見えない心の部分を証明しなさいと言っているに他なりません。それは到底無理なことです。

私がとても残念なのは、教育者側がそのような発言をしていることです。
根本的な、「他者の気持ちになって考える」ということができていないということです。その子の気持ちになって考えることがまったくできていない、そしてその親御さんの悲痛な思いを汲み取ることができない。

それによって生じる数々の失言。ただひたすら自分の学校や自分の地位を守ることだけに一生懸命で、一体自分が何を言ってるのかさえ分かっていないように思えます。

いじめは現代の社会の縮図だと思います。
自分さえ良ければ…という感覚が蔓延しているのだと思います。
それはひとつ間違うと、とんでもない戦争を巻き起こす可能性さえ潜んでいます。

他者の気持ちになって考えることができなくなることは、平気で相手側の領域に簡単に入っていくこともできるということです。自分のことだけしか考えられなくなると、戦争は簡単に起こすことができます。平気になります。

飛躍し過ぎでしょうか。そうでしょうか…。
耐震偽造や列車事故、政治家やNHKの不正、医療事故、虐待、そうした出来事は自分本位の考えで起こっていることです。
       
そして「いじめ」。
いじめ問題を深く追求して行くことで、社会の全体像が見えてきます。
それは「他人事」という無責任な大人による社会が生んだ今の日本の姿です。

他者を「自分事」のように捉え、感じられることができるようになれば、子供たちのいじめは起こらなくなります。そのためにまずは親の意識の問題、それが最初に大事なことです。

というのも、親がしっかり子供を観察し、性格や特徴を理解し、安心できる家庭の中で生きていたら、ひとりで勝手に自殺などしなかったでしょう。なぜなら、守られている居場所があり、愛されるものの中に居ながら家族を残して死ぬことなどできないからです。学校など行かなくてもいいよ、と親は言ってあげることができます。

最後には、子供の味方になってあげることができるのは親しかいません。

認めてもらえない子供
どうしてもコラムでは親子についてのことが多いかな、と思いつつ、またどうしても気になることが次々出てきて書かずにはいられなくなってしまうんですね。

ずいぶん前、お昼に外で食事をしていたときのことです。
日曜日ということもあって家族連れが多く、賑わっていました。そんな中に母と子の2人で食事に来ていた家族がいました。

子供はたぶん10歳くらいでしょうか。
もちろん向き合って座っています。セルフサービスなので、飲み物は自分で取りに行きます。注文してから子供が席を立ち、二人分のドリンクを持って帰って来ました。

多分時間にして一時間もないくらいです。2人が食事を済ませて帰るまでの間、2人の会話はほとんどありませんでした。これはいったいどうなっているのでしょう?

子供は時々母親の顔をちらちら覗きながら、ずっと下を向いて食べているかドリンクを飲んでいるかのどちらかです。その間母親は、ずっと遠くを見ていて子供のことなど眼中にないかのようです。

とても不思議な光景でした。
不思議というよりは、母親はまるで1人の世界の中にいるようでした。目の前の子供にはまったく無関心という状態です。

そうした光景を見ながら、子供は取り残されしまったヒナと同じように、孤独という残酷な窮地にたたされて行くのだと、心で叫ぶ自分がいたのです。

子供にとって無視されること、必要とされないこと、認めてくれないことが一体どういうものか知っていますか?その子供は自分自身をまったく受け入れることができない大人になります。

ということはどういうことか考えてみてください。
これほど残酷なことはありません。
私はたった1時間のその中で、その子供のこれからの将来についていろいろ考えさせられました。

家庭教育の子育てコンサルタントの第一人者、ドロシー・ロー・ノルトさんはこのように話しています。

「人に認めてもらえる中で育った子は自分を大事にします」

それは、逆も言えるということです。
「人に認めてもらえない中で育った子は自分を粗末にします」

もっといい換えれば、自分を粗末にする子は、人に対しても粗末に扱うということでもあります。

社会心理学者でもある、加藤諦三さんもこのように話しています。

「人は自分を受け入れる程度にしか他人を受け入れることができない」と。

自分をまったく受け入れることができないということは、他人を受け入れることができなくなってしまうということです。これほどの孤独は他にあるでしょうか。


鬱にはならない
「前の日に起こったことは、忘れる」
「次の日のことは、考えない」

このことができない人は、「鬱」になりやすいといえる。
こうしたことは、精神科医やカウンセラーの方たちも同じような意見を言います。どういうことかと言うと、人がもっともストレスを感じるのは「昨日のこと」と「明日のこと」を考え過ぎて、気を揉むことで生じてくるというものだ。

これはよく当たっていると私は思っています。
とても単純にいうと、昨日までのことはどんなにあがいて見たところでやり直しはきかない。また、明日ことをいまどんなに考えてみたところでその時になってみなくては分からない。

結局過ぎたことを考え続けていても、変わったためしはないし、明日のことをいろいろ想像してみたところでなかなか思ったようにはいかないことが殆どである。

ならば、「今」を集中して「今」できることをやる。それが結局のところ、最善策ではないのだろうか。

鬱になる人の特徴のひとつに、完全主義があります。
これはものすごいストレスです。
人にはできなくて当たり前、のほうが多くあり、そのほうが自然だと思います。できるというものには幅がありますが、もし自分が無理をしてやっていたことができなくなったのなら、それは元々無理してやっていたのだからできなくなって当たり前です。

人には必ず得意不得意、苦手容易い、好き嫌いがあります。
私たちはそれらを自分で選んで自分の生活の中で暮らしているのです。最初から無理なことを選んでやっていれば、既にできないことを無理しているのですからいつかできなくなって当然ですね。

それを頑張って自分に向いていないことをやろうとすると鬱にもなります。
できないこと(苦手)を頑張ってやることを「完全主義」と私は言っています。

でもどうしてそのようなことが起こるのか考えてみると、「楽しめない」ことに大きな原因があるのではないかと私は考えます。

苦手なことを無理にする必要はありません。でも、できないかもしれないがやってみたいという好奇心でやってみたらどうでしょう。実際やってみたら大変だけど、工夫すれば何とかできたという喜びや自信が生まれます。

完全主義は楽しいと思って何かをやっているのではなく、「やらなければダメ人間になるから」という理由で動くのです。すると楽しくないのだからそれ自体がストレスになります。

人は嫌々ながらやっていることこそストレスになるものはありません。

心から楽しんでやっていれば、大変なことも自分なりに工夫して何とかできるようになるものです。しかし完全主義は、子育ても仕事も家事も何もかもきちんとできていなければ自分を許せません。無理に決まっているのに。

楽しめる人は、手を抜くところは抜き、得意なことで自分を発揮し、そこそこ休み休み物事をこなしています。そうすることで、仕事も子育ても家事もそれほどストレスにはなりません。

家計簿をつけるのがとても苦手で面倒臭いと思っているなら、その家計簿自体をもっと楽しいものに変えてみたらいい。記入したくなるような可愛い家計簿だったり、きれいに整然されたものに安心感があるなら、ハンコを作って見栄えのいい物にしてみたり、いろいろ工夫することで「楽しむ」ことができるのです。

鬱になりやすい人は、生育暦にいろいろな問題があって起こりやすくなるといいます。子供の頃、楽しいと思うことを思う存分できなかったのは悲しいことです。楽しいことにブレーキをかけられると、「楽しむこと=罪悪感」となり、気づかずにいると一生罪悪感のまま生きて行くことになりかねません。

そこで私はこう言いたい。
「鬱になりたくなかったら、ぜひ自分が楽しいと思うことを率先してやること」
「楽しく思えないことを無理してやらないこと」です。

そして一番大事なこと。
「やらなければならないことは自分で楽しく工夫する」
これができるようになれば、できることがどんどん増えて楽しくなっていきますよ。

9.11
先日、9.11同時多発テロから5年目を迎えました。
確かにとても衝撃的な事件であり、ビルに突っ込んでいくシーンを何度も見ながら背筋が寒くなります。

テロは無差別ということで、絶対許されるものではありません。
あの映像が生々しく感じられるために、人々の心に衝撃的に残ってしまっています。

現在イラクでは、毎日のように人が死んでいるといわれています。
始まった頃は、1日に数十人、数百人という数の人たちが犠牲になっていったのです。現在何の罪もない人たちの犠牲者の数はどのくらいになっているのでしょう。それを考えると、9.11事件どころではないかもしれません。

アメリカ兵の亡くなった人たちの数だけでも、既に9.11の犠牲者の数を上回っているそうです。9.11で亡くなった方は普通の一般市民です。イラク市民の人たちもそうした普通の人々たちです。

9.11だけが特別な出来事ではありません。
アメリカで起こったからかわいそうなのか、イラクだからしょうがないなのでしょうか。どちらも同じように特別なことです。何の罪もない人々を無差別に殺していることだけは事実です。

テロはほんの少人数の集団の中で起こっていることです。
その人たちのために、関係のない人々を犠牲にしていいと誰が考えたことなのでしょう。

人の命は尊いものだと教わってきました。
そして大人になった今、その命がいかに多くの人たちに支えられながら、自分がここに居るのかと考えると、自然と深い感謝の気持ちが生まれます。

1年に一度、9.11の犠牲者をお祈りするのではなく、毎日犠牲で死んでゆく人たちのために祈ることができたら、アメリカは変わったと思えるけど…。

また、飛行機がビル突入で一瞬で多くの命を奪ったことがものすごい惨劇ならば、それはイラクでも同様に、毎日のように一瞬で家族を失っている人たちがどれだけいることか。

「やったらやり返す」で盛り上がったアメリカ市民は、また自分たちと同じような痛みを、何の関係のない人たちに転嫁しようとしたのです。それではテロがやっていることと同じではないでしょうか。

どうしても私には、アメリカで起こったことを大きく取り上げるメディアもそうですが、特別に映って仕方がありません。もしイラクで起こっていることを生々しく映像で写されたとしたらどうでしょうか。

私はアメリカがイラクを攻撃し始めたとき、テロとどこがどれだけ違うのか理解できませんでした。正義のためと言いながら、やっていることはテロと何が違うというのか…正義と言い張れば、何をやってもいいのか。

一部でしか報道されないイラクの現状を、私たちはもっときちんと知るべきです。ブッシュ大統領は、「何が何でもテロを許さない、断固としてビン・ラディン氏を捕まえるまでは」と、いかにも犠牲者が出ても仕方がないと言うような発言に聞こえます。

その前に、なぜアメリカがこんなにも嫌われるのか、じっくり考えてみてはどうですか。遠くばかりを見ていて、自分の足元をきちんと見ていないようです。それは日本でも同じこと。着実にアメリカ式が定着し始めている気がします。

そういう国に愛国心をもてといわれても非常に困ります。
愛国心は、心からこの国生まれてとてもしあわせだなと思えてなくては…

心の平穏
今週は「しあわせ」とは何か、について語ってみたいと思います。

私はしあわせについて考えたとき、それは「心の平穏」意外にしあわせを考えることができません。

心の平穏は、私たち自身の中にあるのですが、それを見出すことができずに一生を終える人がいかに多いかが、世の中のできごとを見聞きしながら思うものです。

それは、隣の芝生が青く見えているから、心が平穏にならないのだと思います。どうして自分の芝生が青く思えないのでしょう?1つには、親がいつも人と比べていたからなのかも知れないね。(結構多いです)

すると人は背が低いこと、高過ぎること、勉強が苦手なこと、秀才であること、容姿が醜いこと、美人であること、貧乏であること、お金持ちであること、恥ずかしがり屋であること、堂々としていること、キリがないほど比べたがり屋の癖が身について、いつまで経っても心の平穏はやってきそうもありませんね。

それを一生、永遠やりつづけていたら、そこには憎しみと苛立ちと恐怖と妬みと嫉妬で人生は埋め尽くされてしまうかも。

では心の平穏とはなんでしょうか。

平穏とは、平たく穏やかと書きます。「平」がつく言葉で思い浮かぶのは、平凡、平均、平気、平常、平然、平静、平和など、また「穏」では、穏便、穏和…と、あまり思いつきませんが(ρ_-)o、「穏やか」ですので、何かいいイメージがありますね。

心がザワザワソワソワしていない様子で、とても平和であることがよく分かります。そんな心でいられたらどんなに心地いいでしょう。

では何によって私たちの心は平穏ではいられなくなってしまうのか、そんなことを考えてみると面白いことが分かってきます。
それは外部からの刺激によるものが多いようです。先程述べた「人と比較する」ことに大きな原因があると私は思っています。

自分が不幸せなのは、〜であるからという理由付けをしてしまうと、一向に心の平穏はやってきません。なぜ外部に捉われてしまうのか、あまりにも物が豊富にあり過ぎることや、豊かになり過ぎていることも大きな原因の1つかなと思います。

また、メディアの力も大きく作用していると思います。
「勝ち組」、「負け組」に分けて、人を区別して楽しんでいる節があります。これはまさに人と比較することが面白いことのように受け取られますね。

今回は「しあわせ」がテーマです。
相田みつをさんの言葉の中で、『しあわせはいつも自分の心が決める』というのがあります。私はこの言葉が大好きで、続きをちょっと考えてみました。
     

しあわせはいつも自分の心が決める
その心は自分だけが知っている
何にもとらわれない自分がそこにいて
はじめてそこにしあわせがあったことに気づく


「しあわせ」という言葉には、人それぞれの捉え方があってあたりまえ。
でも心の平穏なくして、しあわせはやっぱりやって来ないよね。
しあわせに条件なんてないものね。

ちなみに私はとてもしあわせです。
だって自分で決めていいんですよ。(=^▽^=)

爪弾き
次の物語をあなたはどう受け止めますか?

ある日突然、大人数の大人たちで、平凡に暮らしていたある家族の家へ突入し、ものすごい惨殺の末、一番下の子だけが生き残りました。
その後、惨殺を指揮した大人たちは法律によって死刑にされたのです。しかし、その惨殺を指揮した大人の子供(家族)たちは、家族を惨殺された者に対して「いつまでも昔のことを掘り起こし、いい加減にしてくれ」と言っています。

あれから何十年も経ち、家族を惨殺されたその家族は、惨殺を指揮した人をなぜ英雄として、神として祀られるのだと抗議をしているのです。家族にしてみたら、寝ても覚めてもその光景はいつまでも忘れることのできないものです。

そしてとうとう「大人気ない」などと、罵声を飛ばし、聞く耳をもとうともしません。きちんとした謝罪もなく、祀られた理由の説明もなく、それぞれ心の問題であるからと簡単に片づけてしまおうとしています。

この残された家族の心の問題はどうなっていくのでしょう?

もうお分かりのように、
指揮をし、惨殺の行為をし、その家族をぼろぼろにしてしまったのはつまり日本です。
そして何の罪のない家族を殺されたのは中国や韓国です。

この構図をきちんと覚えていて下さい。

何月に参拝しようが、必ずどこかで反対勢力が出てきて、批判を言う、ということで小泉さんは怒っていますが、人がいったいどのように亡くなり、どのような心の傷を受け、どれだけ深い悲しみが消えずに残っているかを一度だって真剣に考えたことがあるでしょうか。

戦争を起こし、隣国を巻き添えにし、侵略戦争を起こしたのは日本です。韓国、中国と何の争いがあって戦争を起こしたとでも言うのでしょう。もし争いによって残虐行為が行なわれていたら、それはお互い様だというのはまだ理解できます。でもそうではなかった。

ある人は、A級戦犯は死刑となり、それで十分に罪を償ったではないかと言う人も出てきて私は驚きました。はっきりいって言葉が出てきませんでした。そういう言葉をどこの誰が聞いているか知れません。そうした浅はかな言動を許し、メディアの前で発言させることも問題だと思います。

家族を拡大したものが国であり、国の縮図は家族です。そうした発想からもっとじっくり考え発言してほしいと思います。次期総理になる方は、そこがしっかり捉えられていなくては、もっともっと日本はアジアから爪弾きにされていくことでしょう。

このままでは末恐ろしい国と化してしまいそうで、私は危惧の念を感じてなりません。

<補足>
このコラムはあくまでも私個人の意見であり、反対論があって当然と受け止めております。中傷するようなメールは一切受け付けておりません。どうぞご了承下さい。

言葉のもつ意味
1日が終わるとき…
日が沈むとき…
さよならの後…
その余韻に浸っているとき、人はどうして寂しくなるんだろう…
でもその寂しさは、悲しみの寂しさとは何か違うような気がする。

私は夕日を見ていてると、なぜかとても寂しくなります。
その夕日がもしばら色に染まっていたら、その寂しさはいっそう寂しいものになります。

だけどそのばら色の夕日が私は大好きです。
私は時々夕日を見ながら涙が流れます。
そして私は思うのです。

なぜ夕日が大好きなのか、なぜ涙が流れるのか、それを考えても私には分かりません。いや、もしその「なぜ」を言葉にしてしまったら、あまりにも切なくて怖いとさえ思います。

私だけではなく、人は、言葉にできないものをたくさん抱えているので、人は孤独なのかもしれません。
また、言葉に出して言ってはいけないことや、言葉に出すととてもつまらないものになってしまったり、それがピッタリと自分にあった表現ではなかったとき、その大好きだったものに対して薄れていくようでそれが怖い。

言葉をうまく表現できる人ってすごいなぁと思います。
それもひとつの才能だと思うからです。
その才能は、作家や評論家にきっと向いているかもしれませんね。

ものを作る人や描く人は、言葉で表現できないものを芸術に託します。
それもすごいなぁと思います。

じゃぁ、言葉力にも芸術力にも才能のない人はどう表現するのでしょう。
そしてそういう人たちが多くを占めているはずです。
大半の人たちは、コミュニケーションで何とか自分なりの表現をしていくのだと思います。

でもそのコミュニケーションが実はもっとも難しかったりするわけです。
一口にコミュニケーションといっても、要するに人間関係の育み方で、人を相手にひとりひとり価値観の違う者同士が図るわけですから、なかなか自分の思ったとおりに人間関係を円滑にしていくことは大変なことです。

どうしても人間関係がうまくいかない人、いつも孤立感があって人とコミニュケーションを図るのが苦手だと思っている人って結構多いですね。でもよく考えてみると、相手は言葉に才能のある人なのか分からないですよね。言葉の表現があまり上手じゃないかもしれませんよね。

そう考えてみると、何の意図もなくあっさりと発した言葉を、丸ごと受け止めてしまうのは危険ではないでしょうか。
もしそれをどんな人に対しても丸ごと受け止めてしまっているなら、良い人間関係はなかなか築けないと私は思います。

言葉に表現力のある人、誰にでも理解できるような話し方のできる人ってそうそういません。そして人は時に油断をします。心の思いとは違った表現をしてしまうなんてことも時々あるでしょう。もしそれを一つ一つ真に受けていたなら心はボロボロになってしまう。

「あなたが嫌い」は、「あなたが好き」が、心に隠されているかもしれません。
人はそんな微妙なことも何やらやっているので、とても複雑です。

私は言葉よりも、相手がどのような人なのか、「知ろうとする興味」がコミニュケーションには大事なことだと思っています。どんな人でも自分に興味をもって接してくれると嬉しいものです。その会話の中から時々本心が語られることもあるからです。興味をもって接していれば、その人の自分にない素晴らしいところや発見があるでしょう。

コミュニケーション能力は、なかなか意識しなければ身につかないものです。相手がいることですから、自分の好きな事ばかり話していても相手は飽きてしまうし、聞いてばかりでは何となく窮屈になっていく。バランスを意識しながら対話するというのはもっとも難しいことかもしれません。

でも人が心から興味をもって聞いていれば、それが相手に伝わり、窮屈になっていくことはありません。興味をもってくれた人に今度はその人が自分に興味をもつようになる、ということが起こるからです。

そして、言葉にならない何かが起こります。言葉を越えた何かが起こるといったほうがいいでしょう。言葉はそれほど重要ではなく感じられる。親しくなると二人の間にそんな奇跡が起こるものです。

話が少しそれましたが、私は言葉にはそれほど重視していないところがあります。言葉だけで解釈してしまうと、誤解が生じます。そんなことをカウンセリングのなかでたくさん経験をしてきました。

今回は、言葉の裏にあるものを意識してみては、ということでお話しています。言葉をすべてと捉えてしまうととても恐ろしいです。それよりも、もっと深いところで人を見ていくことは、本当は大切なことで、よくよく観察していると、かなり自分の誤解であることを後で知るなんてことがありますね。

最初にお話した、好きなことを語るとき、それはとても怖いものです。それを語らない自分がいてもいいと思います。語らないからこそ伝わることだってあると思うから。そんな孤独を少し抱えながら生きていくのも、決して悪くはないと思う私です。

心をかけて、手をかけない
解剖学に詳しい、北里大学教授の養老孟司さんが興味深いことを言ってました。
人が手をかけて作り上げてきたものはすべて人工的であり、それは自由に操作できるものであるが、自然は違う。
自然は未知なものであり、人が手をかけて作り上げたものではないということを知ることで、子供もそうであるということが分かるという。

私たちも子供も自然の一部です。
子供がどのような特質と個性をもっているかも分からないで、親の色に染めようとすることはとても無茶なことであると。

自分が赤い花を育てているつもりでも、その花は黄色の花であったといつか知る。その時、どうして赤い花じゃなかったのかと悩む必要がどこにあるでしょうか。それは自分の勝手な思い込み。この花は黄色だったんです。

それをそっくり子供に当てはめて見るとよく分かります。
「私は黄色い花を育てていたんだ、それならそれでよし」と受け入れることが自然なこと。
もしそれを赤い花にしようと必死に操作し続けたらどうなるでしょう。
それで子供は壊れてしまうのです。そこに目を向けることがとても大事だと養老さんはおっしゃっていました。

親と子供はまったく別の人格を持っています。
子育てはそこから始まります。自分の子供が、何が得意で何が好きで何に興味をもつかを観察していきましょう。観察しながら親も子どもと一緒に成長していきます。親は自然を育てているんです。その自然(子供)からたくさんのことを学んでいくのですね。

そして養老さんはこんなことも言ってました。
今の親たちは、子供に手をかけ過ぎてばかりいる。要するに、自然はほっといても育っていくもので、子供も然りです。親がいなくても勝手に育つものなのに、あれをしなさい、これをしなさいと手をかける。

「心をかけて、手をかけない」
これが大切なことだと養老さんは言ってましたね。ひどく納得する自分です。

また、精神神経科・斎藤病院名誉院長の斎藤茂太さんは、「あきらめ力」という著書にこのような文章を載せています。

『何かにこだわっていつまでも「あきらめない」ことは、自分の人生がなかなかうまく回ってくれないということである。「あきらめる」ことは、くよくよしたりイライラしたりすることなく、前向きな気持ちで生きるための知恵のひとつであると思う』

子供が自分にとって思うような方向へいってくれなかったとして、その子供に何の責任があるのでしょう。子供が黄色い花であるということは自然なことです。そのありのままの黄色を受け入れ、心をかけてあげましょう。

一粒の種も、心をかけて育ててあければ、美しい黄色い花が咲きます。
しかし、いい種を持っていたとしても、心をかけて育ててあげなければ美しい花は咲きません。勉強のできない子でも、心をかけて育てていけば、人間味のある優しい人に成長し、得意なことで人生を楽しく生きていくことができます。

子育ては、親自身も共に成長していくことなのですね。
未知なる自然を育てるのですから当然のことです。
ならば、興味深く観察しながら、ウキウキしながら子育てを楽しみたいものですね。

自分を育てる
子が親を殺し、親が子を殺す。現代はそうした時代になってきている。
ずっと昔の時代劇やドラマでは、どんな悪人でも親だけは特別だった。何が何でも親だけには悪人の姿を見せたくなかった。親にだけは他人とは違う、情け深い感情が自然と働く。

どうしようもなく悪人になってしまった弱い自分だが、そんな悪人にも情けはあるものだ。
だが現代の悪人はその情けすら失ってしまっている。そんな気さえする。
犯罪者をあえて悪人と言わせていただくのは、罪を犯した人はどんな理由にせよ悪いことをした人です。

ただどんな人にもその悪の心はどこかにもっているもの。
そしてその心をもったとしても、行動に移さないための理性が働きます。その理性が働かなくなったとき、人は悪人になってしまうのでしょう。

近年子どもがおかしくなってきている、と大人たちが言います。でも子どもは昔も今も特別変わってなどいないはず。しいて言うなら時代背景が変わり、環境による生活そのものが変わってきているというくらいだ。

これは私の勝手な考えだが、確かに今の親は親としての自覚が薄くなってきていると感じる。子どもを育てる前に、自分を育てることを忘れているように思う。こうした現象が、おかしくなった子どもを生み出している要因ではないのか。

というのも、親が子どもを生むまでの間、どれだけ自分自身を知っているだろう。どれだけ大人として成長してきただろう。どれだけ感謝や思いやり、痛みや苦しみを体験してきただろう。どこに希望をもって生きていただろう。

こうしたあらゆる体験を通して人は大人になっていく。
その体験を子どもに伝えていくことはできる。自分自身が体験をしていないのに、どうやって子どもを導いてあげることができるのだろう。もし自分が挫折したまま、達成感のないまま子どもを育てているとしたら、子どもを叱るとき、しつけをするとき、その言葉には力がない。

人は体験を通してしか本物は語れない。
頭の中だけでは、あくまでも想像でしかなく、『心』が入らない。
私はそのように思います。

勉強、勉強と言い続ける親は、子ども自身を見ているのではない。
自分の面子にしか興味がない。自分が医者なら、当然息子も医者にして格好がつく。人にどう思われるかを気にしているからだ。そこに息子の存在はない。息子がどのように苦しんでいるのか、どうして成績が下がったのかはまったく興味を示さない。

そして子どもは、勉強さえできれば親がもっと愛してくれるかもしれないと思う。それで頑張って勉強するが、なかなか思ったようにはいかない。そして挫折するが、その挫折は無力感に近いものとなる。勉強ができない自分は何の価値もない人間だと思い始める。親は自分がいかに立派な人間かを見せつける。挫折などしたことがないかのように…。

そんな親を見ながら、次第に無力感が増してゆく。何もかも消えてなくなればいい、何もかも無くなってしまえば、自分を悪く言う人間はいなくなる。感謝や思いやりを家族で体験してこなかった息子は、当たり前のようになすべきことをした。自分の居場所を探すために…?

親にはいつも不満がある。
実際感謝や思いやりを体験していない。挫折や希望を体験していない。長く自分をごまかして生きてきたのだろう。それはそのまま子どもへ向かう。自分をごまかすため、弱い自分を隠すため、息子はその代償となった。

子どもが問題を起こすとき、そこには必ず親が何か間違いを犯している、と気づかなければならない。もし自分に自信がないのなら、強がらないことだと私は思う。ダメ親でも子どもはそれなりに育つもの。問題は、『心』を入れて話すこと、感情だけではなく、相手に心で伝えること。それがしっかり入っていれば、子どもの居場所はそこにある。

自分を育てることは、何も立派なことをすることではない。心を育てていくことに他ならない。

居場所がない
長い梅雨に入りましたね。
猫ちゃんも傘の下であまやどり♪こんなところにちょうどいいものが…
この梅雨を何とか楽しく乗り切りたいものです。


秋田で起こった事件は衝撃が走りました。
今週はこの事件に関して私なりにいろいろ考えて見ました。
どうしてこのようなことが起こったのか、事実と照合しながらあらゆることを考えて見ました。

彩香ちゃんが事故でなくなりました。それは本当に事故だったのか、人の手が加わったものなのかまだ分かりません。
ただ分かっていることは、家の中で彩香ちゃんは疎外それていたことです。それは近所の人や知り合いが目撃したり彩香ちゃんから聞いたりしていることからそのようなことがあったことは事実のようです。

畠山容疑者の、ある男性との付き合いのなかでも彩香ちゃんは疎外されていました。カップラーメンを渡されて外に出るように言われ、家の中に入れてもらえない。そんなことがよくあったみたいです。

お風呂にも入らせてもらえないので、頭はふけだらけだったとか…そんな話があちらこちらで言われています。また、朝は泣きながら学校に登校して行く姿も何度か目撃されています。朝は食事抜きなので、学校で倒れたこともあるそうです。成長時期に食事抜きはひどいものです。

畠山容疑者は非常に面倒くさがりのようです。きちんと食事も作っていなかったようです。その証拠にガスのタンクが外に置いてありません。外食やインスタントで済ませていたのでしょう。そして、金遣いが荒いというのもとても有名です。

さて、こうした畠山容疑者からどういう性格が見えてくるでしょうか?
また、彩香ちゃんはどんな思いで過ごしていたのでしょうか?

私からは畠山容疑者が子どもにみえて仕方がありません。子どもは、自分の思うようにならないと癇癪を起こします。子どもが知恵をつけていくと、自分の都合に合わせた嘘をつき始めます。自我が形成されていく過程で、そこを修正して行くのが親の役目であり、修正されずそのまま親が放置したままにしていると、子どものまま大人になってしまいます。

途中修正は何かのきっかけで起こることもありますが、大きくなっていくほど困難になって行きます。
畠山容疑者の虚言癖は、そんなところから来ているのだと思います。良い悪いに関わらず、自分自身の都合と自分を守るための手段としてでてくるため、良心とは関係なく簡単に嘘がつけます。

だとしたら、畠山容疑者が子どもを育てるとどういうことになるか、想像がつくと思います。物事は自分優先で回っていなくてはなりません。子どもに対して愛情が注がれないのも、気を配れないのも、彼女の中にある癇癪が抑えられないからだと考えられます。

そこでの彩香ちゃんが、どんな暮らしを余儀なくされていたか想像してみて下さい。育児放棄と報道されていましたが、それに加えて彩香ちゃんは邪魔者扱いにされ、自分の居場所がどこにもありません。これはどういうことでしょう。

必要とされない自分は、子どもながらに自分の存在を否定するほかありません。ものすごいことです。小さな体で抱えきれない重圧を背負って毎日生きているのです。帰る場所がない彩香ちゃんはどうしていたのでしょう。それを思うと心が張り裂けそうになります。

彩香ちゃんの死が、もし人の手が加わっていないとしたら、身を投げた可能性は十分に考えられます。あくまでも想像ですが、居場所がなくてたどり着いた場所が人気のないところ。誰も心配して自分を探してくれるわけでもなく、ひとり寂しくそこで時間をつぶしていたのかもしれません。

畠山容疑者がなぜ豪憲君殺害に至ったのかは、本当のところまだよく分かりませんが、彩香ちゃんの死と何かしら関係があることは間違いないでしょう。
私は彩香ちゃんの死の解明こそが、豪憲君の殺害の大きな鍵になっていくように思います。

彩香ちゃんの死が事故なのか、殺害なのか、自殺なのかは分かりません。でもこの事件は、孤立化の進む現在の「家族」のあり方に、大きな疑問を投げかけてくれているように思えてなりません。

第二の彩香ちゃん、豪憲君のようなことにならないことを、心より祈っています。(-∧-)

生き急ぎ
この間、「笑い」についてあるテレビ番組で面白いことをやっていました。
笑いを取り入れながら、活性化を図ろうという目的で、企業がとても真面目に笑い(ユーモア)について勉強している会社を紹介していました。

社長自ら着ぐるみを着て、社員に「よく頑張った」ということでお菓子をプレゼントしていたり、月に1、2度、代表社員と社長が円を囲み、ケーキを食べながら、社員が現在気になることやアイデアやこんなことがあったなど、気軽なトークで打ち解けている様子も映っていました。

会社はやはり社長次第なんだということを改めて感じさせられます。
「笑い」は人をリラックスにさせ、親近感を感じさせ、言葉も自然に柔らかくなっていきます。

現在そうした企業が増えているという背景には、ギスギスした会社の雰囲気やハッキリとした上下の壁が、よりいっそう活性化を阻んでいるのだということです。

それに気づいた企業では、アメリカなどが行なっている、笑いを取り入れたことで、目覚しく効率のいい結果を生んでいることからヒントを得たということです。

何々大会なるものを開催し、企業全体が明るく楽しい職場にすることに熱心です。それを日本でも取り入れようと動き始めたことは、とてもいいことだと私は思っています。

会社で働くということは、ほとんどの1日を会社で過ごしているということです。
その会社で人が活き活きしていられることは、さまざまな潤いをもたらします。その潤いは、やる気につながり、やる気はさまざまなところで伝染して行きます。

やる気が起これば、自然と「笑い」も起こります。
笑いは人間の身体に最も素晴らしいシグナルを伝達させます。
その「気」は、病気も寄せつけないいいホルモンがたくさん出て、免疫力もアップさせます。

笑いこそが、私は人間に最も素晴らしい栄養剤だと、常日頃から実感させられます。

それからもう一つ、ホリエモンが言っていた「生き急ぎ」について、ちょっと考えて見ました。
目まぐるしく変化する世の中において、この言葉は私の心の中にも響いてきます。情報化社会でとても便利な世の中になり、次から次へと新しいものが入ってくるようになりました。

それに着いて来れない者は、どんどん後れを取るか、またそれを悪質に利用し、数知れない犯罪が多発してきているように思います。
もしかして社会全体が生き急ぎ過ぎなのかも知れません。

そして生き急ぎ過ぎてしまった結果、ホリエモンの発した言葉のように、何でもかんでも急いでやることはなかったのに…と痛感したのではないでしょうか?

先日、ニュース23の筑紫さんの他事争論で話していたことが、私の中に響くのです。こんな世の中だからこそ、人は時々プラグを抜いて、すべての情報との接触から離れてみる。

そうすることで、違った何かが見えてくるかも知れません。
生き急ぎ始めたとき、ちょっとゆとりの自分を発見したいものです。

カウンセラーという立場から
私のような心理面でのケアを職業としているものが、時々ショックなニュースを目のあたりにした時、とてつもない衝撃が走ることがあります。

この数年の間、そんな犯罪が特に目立つようになりました。
最近では、不登校や家庭内暴力などでなかなか学校へ行けなくなっている子供たちを施設で預かり、訓練の場として自立を支援しているはずが、逆に虐待をし、死にまで至らしめたというケースがありました。

暴れる子供を無理やり縛り付け、押さえつけるだけの指導でどうやって自立ができるというのでしょう。

このようになってしまった子供たちには必ず理由があります。行為そのものだけではなく、なぜ不登校になってしまったのか、なぜ暴力的になってしまったのか、そうした心理面でのケアがきちんと行なわれなければ、施設の運営を任せることは危険だと私は思います。

事件の起こった経営者が、あるテレビ番組で子供との会話を収録したものを見ました。そこではとても理解のあるようなことを子供に説明しているのを見て、誰もが納得させられます。

後でそれを見たときには恐怖さえ感じますが、時に人は心理面で癒され、時に心理面で欺くという行為が行なわれ、心理職には紙一重のところがあるといっても過言ではありません。

こんなことをいうのはとても寂しいことですが、事実のようです。

心理カウンセラーの仕事も、ひとつ間違うと恐ろしいものになります。
言葉巧みに知った振りをして、ノウハウだけクライアントさんに叩き込み、頭でっかちのカウンセラーも多くいるようです。

傷ついた心を抱えながら尋ねてくるクライアントさんに、傷つく言葉を平気で言ってしまうカウンセラーのことを耳にしたとき、ただただガッカリしてしまいます。

そんな話を聞いたときに、では私はクライアントさんの傷みをどれだけ感じ、受け止められているだろうかと自問自答する自分がいます。

私の大きな欠点は、一点集中型であるため、入り込み過ぎてしまう過度な部分があることだと思っています。それがカウンセラーとしてどうなのかとさえ疑問が生まれます。

適度なところで客観的に見ることを意識しながら、常に自分自身と少し距離をおく工夫が大切だと感じつつ、毎日毎日反省が続きます。

カウンセラーという立場がどういうものであるかを考えさせられながら、心理職の重要性については、これからももっと深く考え追求していくテーマです。

病気のときに、安心して医者に任せられる信頼感を、同じようにカウンセラーも強く実感し、もっと責任をもってやっていかなくてはならないと思います。

これからもよろしくね♪
お待たせしました!


やっと今年もリニューアルすることができました。
数ヶ月前からコツコツとゆっくりサイト作りをしてきて、やっと今日に至ることができ、ホッとしています。
(´∀`;) 


何度も何度も中断しては、なかなか前へ進まないことも多く、「やっぱりやめようかな?」と何度思ったことか…。
心の扉のイメージを崩さずに、シンプルで分かりやすいサイト作りを心がけたつもりでいます。
もし見にくい部分があるようでしたら、ご一報をいただけるととても嬉しいです。
できるだけ、見にくい部分は修正しながら、より分かりやすいサイト作りをしていきたいと思っています。
もっとこんなことが知りたいなど、ご意見もまた嬉しいです!!(^Q^)/゛


コラムも隔週でと思いながら、ついサボってしまいがちなので、これからはもう少し豆にコラム作りもしていきたいと思います。


ひとつだけ頑張っているのが、「ほのぼの日記」です。
2月の中旬より、毎日日記は書き続けています。
特に何もないなあと思いながらも、ちょっとでもいいから感じたことを書いてみよう!と、これだけは続けることにしました。
毎日書いていると、いつの間にか習慣になっていくので、結構続けられるものです。
良い習慣はどんどん取り入れていきたいものですね。


もうひとつ、「心にあるもの…」というポエムも掲載してますが、HP作りに気をとられ、すっかりサボっていました。(>_<)
こちらも定期的に更新していきたいと思います。
リニューアル完成となり、気分も新たになったところで、これからはもっともっと豆に更新していく所存でございます。


今後とも、どうか心の扉をよろしくお願い申し上げます。m(_"_)m


サンタクロースがやってくる
いよいよ今年もクリスマスシーズンがやってきました。ずいぶん前から街中はクリスマスに彩られています。日本はいつからクリスマスがこんな盛大なイベントになったんでしょうね。

私が子どもの頃、家でクリスマスパーティーはありませんでした。小学校4年生になって、初めて友達とやった記憶があります。みんなのお小遣いから出し合って、数百円の大きなケーキを買って食べました。

その頃私がとってもほしかったものが、クリスマスツリーです。何ともいえないキラキラしたツリーの飾りと、明かりの無い場所でチカチカ照らされる姿。不思議さとその神秘性によく魅せられたものです。自分自身が別の世界と溶け込んでいるような錯覚がありました。あれは何だったのだろう?

今思うと、子どもだから感じられた感覚なのかもしれません。サンタクロースとトナカイが空を飛んでやってくる。本当にやって来るんだと信じたい気持ちが強く心にありました。絶対誰も否定してほしくない、「いるんだよ」と言ってほしかった。一生見ることができなくてもいいんだ。ただ一言「いるんだよ」で良かった。

子どもには薄々分かっていたのだ。それでも子どもは「信じたい」と強く思うことはとても大事なことだった。子どもの世界にはすべてを受け入れる用意があるのだ。怖いけれど、泣くかもしれないけれど、サンタさんに会いたいと思っている。「やっぱりいたんだ」と思いたいから絶対親が枕元にきてプレゼントを置いていくなんてことは考えない。もしそんなことを考えたら、子供の世界は永久に無くなってしまうから。

子どもはその夜、何とか頑張ってサンタが来るのを一目みようと眠らないように必死にこらえるのです。それでも子どもは寝てしまう。眠らなければサンタが来ないような気がするのか、やっぱり怖いからなのか。

いいえ決してそうではありません。子どもにとって夜は果てしなく長いから…子どもにとって夜は永遠のように感じられるから…

子供の世界には、大人には決して知らないもうひとつの世界がある。その世界は、子どもにとっては大切な宝物の世界。そんな宝物の世界を、大人はいとも簡単に壊してしまう。一度壊してしまうと、もう二度とその世界へ入って行くことはできない。


私はその宝物の世界をもっていたことがあった。空想と想像との世界が私を大きく包み、恐れと好奇心で入り乱れていた。長い長い夜がいつまでもいつまでも続きますように…

感謝
阪神が優勝し、またまた盛り上がりすぎて逮捕者が出てしまいました。
嬉しいのはよくよく分かるけど、やっぱり度が過ぎては困ってしまいますね。(-.-;)

もっと周りに迷惑かけずに楽しむことはできないものでしょうかね。阪神ファンなら、選手たちに迷惑になることは控えましょう。
喜んでくれるのはとっても嬉しいことだけど、マナーが悪すぎて優勝も心から喜べないですよ。と、ある選手が言ってたとか言わなかったとか?

10月に入り、すっかり涼しくなってきました。あの夏がもう遠い思い出のように秋が色濃くなってきましたね。そんなこと感じているのは私だけかな?

でもまだ10月ですからね。今年はあと2ヵ月もあります。うん、いいですね、ポジティブな考えでしょ?そのように考えて行くと、何か得した気分になります。(*^_^*)
捉え方ひとつでポジティブにもネガティブにもなるんですね。

最近とても感動した話を聞きました。ネガティブだった人間が、あることによってポジティブに転換したある一人の青年の物語です。

高校生のA少年には小さい妹がいます。ある日、その二人の両親が突然の事故で亡くなってしまいました。
そして年月が流れました。



両親の死から、その後どのように生きてきたのか、後に尋ねたところ、そのとき彼はまだ高校生で、家庭は貧乏だったという。
暴走族に入っては、よく暴れていたのです。将来に希望もなくやけになっていた時期でした。

そんな時、突然の両親の死に直面し、いきなり目の前に現実が現われたといいます。
ひと回りも離れた妹が不憫でならなかったといいました。両親には一切貯金もなく、助けになる親戚すらいなかったそうです。

そして彼はこう言いました。「もしあの時、妹がいなかったらひとり好き勝手に悪い仲間とぐれていただろう」と…彼は妹のために必死になって働きました。
そして彼はこうも言います。

「親がもし貯金をたくさん残していたら、面倒を見てくれる親戚がいたら、小さな妹がいなかったら、きっと自分はこんなふうに必死になって働くこともなかっただろう。
今こうして自分が大きくなれたのも、年の離れた妹がいてくれて、貯金もなくて、誰も頼る人がいなかったことが、今の自分を強くしてくれたのです。
そのことに親には心から感謝しています」

久しぶりに心の底から感動が走りました。(;_;)そして、そこに何かとてつもないメッセージがあることに私は気づかされました。。。

この世の中には、運命を糧に必死に生きている人がどれだけいるのだろう。
他の国では戦争があり、飢えがあり、今生きていることに、ただただ必死な思いで暮らしている人たちがいる。彼の言葉から、私たちに伝えようとしているものは何でしょう?

少年犯罪
夏らしい気候が続いています。湿度があまりないと、多少暑くても過ごしやすくていいですね。
私は暑い季節も寒い季節も大好きです。暑い夏は、ビール等の私にとって最高ですね。
何といっても一年で今が一番おいしく感じます。それに、今やっている水泳の世界大会が面白くて仕方ありません。

このために、みんな一所懸命練習に練習を重ねてきたんですよね。
感動して涙が出そうになります。そして、松岡さんの心のこもった応援にも私は感動しています。どうしたらあんなに熱くなれるんでしょうね。(^ε^)♪

といってる私もつい興奮して、名前を叫んで応援しています。

人間て、感動できる動物でよかったなあと思います。人それぞれ感動するものは違いますが、それがあるから、生きていて良かったと思えるんでしょうね。

人は頑張った分、必ず自分に返ってくると思います。私はそれを信じてるから、辛くても頑張れるんだなあ。
それを信じられなければ、あまりにも空しいですよね。

自分はついていない、と言われる方がいますが、確かにつきのないときもありますね。頑張ってるけど、何も報われないとき…。

でもおかしなことに、そういうときって、何かが間違っていたり、頑張らなくてもいい所で、余計な力が入ったりしているものです。そう感じることありませんか?

私は最近そんなことがありました。
「私はこんなところで何頑張っていたんだろう?」って。結果は悲惨なものです。こうしたことって後で理解できるんですよね。
そのとき気付いていれば……

後悔と、至らなさと、なぜ?が入り混じって久しぶりに落ち込みました。「カウンセラーもそんなことあるの?」なんて言われそうですが、
カウンセラーも普通の人間ですから。(´-`;)

そんなことを繰り返しながら、それを糧に、成長しなくてはなりませんね。そんなわけで、水泳競技を観戦しながら、「ガンバロウエネルギー」をもらっています。
この夏、熱くなりますよ〜

最近、中学生の少年が警官を刺すという事件がありました。
この少年の父親や祖母が言うには、そんなこと信じられないと言います。近所の人や校長の話でも、とてもおとなしく、静かな子だと言う。

でもその少年の部屋を覗くと、少女漫画のキャラクターやモデルガンなどが趣味で、誰も部屋には寄せ付けたくないらしく、新聞紙で目張りなどがしてある。
祖母は、少年の食事は自分の部屋でひとりでしていると言っていた。

こうしたことから見えてくることがひとつあります。
それは、「無関心」です。

三年前の事件で、19歳の女の子を刺して逃げた犯人がつかまりました。この20歳(当時17歳)の少年の父親はこう言ってました。
明らかに嘘だと分かるいい訳をしていたこと、靴を履いていなかったこと、どう見ても自分の息子が犯人だと確信していたはずなのに、その兄弟が、「自分の息子を犯人扱いしてる」と言われてそのまま三年間も放置していたのです。

ここから見えてくるのも、「無関心」です。
きちんとした対話がなく、親自身子どもから逃げています。言葉だけを信じ、それ以上深入りなしに、立ち向かうことなく子どもから逃げているのです。

こうした親は、本気になって子どもと向き合ったことがないのでしょう。自分の面子しかありません。こうしたことが、最近の犯罪に大きく関係していると私は思います。

警官を刺した子は、本物の拳銃がほしかっただけと言ってました。親は子供に何でもモノを与えます。中学生だというのに、買ったら相当するであろう値打ち物ばかりです。

そうして親は、子供にいいものを与え、愛情は与えようとしません。与えるという表現は適当とは思いませんが、愛情の代わりにモノを与えているという意味で、使わせていただきました。

とても間違ったしつけです。争いごとを避けている限り、本気になって子どもを理解することはできません。私はこれらの事件の報道を聞いて、これから益々こうした事件が増えてくるだろうと感じています。

物が豊富な世の中で、平均的に裕福な生活をしている我々が、大切なことを失いつつある危機感を感じずにはいられません。

自分の子どもを理解し、知るためには、本気になって喧嘩したり、きちんと話を聞いてあげたりすることで、子どもの微妙な変化に気づいていくものです。何も知らなかったでは遅すぎます。

少年少女の犯罪は、その親も共犯者であることを忘れてはなりません。

感動してますか?
夏らしい気候が続いています。湿度があまりないと、多少暑くても過ごし