
これまでのコラムA
| 夏休み |
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私は夏に海へ行くことがほとんどない。考えてみるとぜんぜん泳げないし、かなづちだから泳ぎたいとも思わない。だから夏の楽しみは何かと聞かれると、しばらく悩むのだが。
そんなかなづちでもダイビングはやってみたいと思う。
海の中は別の世界があるという。世界観まで変わるという。そんな素晴らしいスポーツならぜひやってみたいなと思うよね。
いつだったか元シンクロをやっていた小谷さんが、イルカと戯れていたのを番組で見たことがある。
あんなふうに泳げたらいいなあ〜てすごく思ったね。
でも無理だなと思ったし、どうしても恐い。ならばボンベを装着してなら何とかなるのかな…て思い、いつか挑戦してみたいと本当に思った。
でも私は心配性だから、もしボンベが壊れてパニックになったらどうしようと考えてしまう。そう考えると勇気が出てこなくてやっぱりダメかなって。
よし、これはきっとタイミングというのがあるんだ。
ダイビングは頑張ることじゃなくてちょっとした勇気なんだ。その勇気はきっかけから生まれてくるのかもしれないと。
そんな理由をつけながらいつも後回しにする術を身につけてしまった私である。それで今私ができることは山登りである。
夏は山なのだ。山登りは好きだけどそんなに登ったことはない。富士山なんて絶対無理だと諦めたりしている。でも一生に一度は誰もが登ってみたいと思うはず。日本人だからね。^^
一年に一度は山を登る。
それが私の楽しみだ。有名なところでもなんでもない山を散歩しながら登っていくのが好き。だから山登りというほどのものでもない。
私はきっと登ったてっぺんから観る景色が好きなんだ。
でも山登りする人たちはみんなそれが目的なんだよね。たいした違わない目的なのに何だかヒーヒー言いながら辛い思いをして登ろうとまでは思わないんだね。
きっとまだまだその素晴らしさを実感できていないのかもね。^^;
でももう一つ私の山に対しての目的がありました。
それは森林のエネルギー。森林浴というのがあるけどまさしく私はそれに癒されるのです。
緑に囲まれて感じるパワーやエネルギーが私の疲れた心も身体も解きほぐしてくれるのです。
さあて、夏休みだね。山に登るかどうか分からないけどこの夏はまた森の中へ入っていくことにします。
夏休みのそれぞれの楽しみ方。
夏休みはぜひリフレッシュしにどこかへ出かけてみるのはいかが?
せっかくの休みだから疲れてしまっては何もならないね。
山へ行くのも海へ行くのもどこへ行くのもちょっとした目的があって楽しめなきゃ、ただ疲れただけで夏休みが終わるのはもったいないのだ。
子どもの付き合いも大変だけど、その他に自分のためにも時間を作ってリフレッシュしたいものですね。^^
んーと、どこにしようかな・・・
| 体を動かす |
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そうですね〜私も面倒くさがりやだから、ニャンコのように箱の中にじっとしていたいなと思うことが多いのね。^^;
子どもの頃、年がら年中動き回っていたものですが、忙しさにかまけてスポーツもすっかり止めてしまったわけで…。
それではいかんと思いつつ、やっぱり時間がない!困ったものだ。
で、歩くことにしたわけです。
時間がないからといって自転車で済ませている自分に「喝!」だな。
いやいや、あなたに言ってるのではありませんよ。あくまでも自分にです。^^;
ストレスの多い仕事ではあるし、気分をリフレッシュしなくちゃ私のような不器用は抱え込みすぎてしまう傾向十分ありです。
これってよくダンナさんに言われること。(人のことはよく見えるってね^^;)
よくですね、いろいろ考えすぎて時間だけが過ぎていくことってあるでしょ?これは一度慣れてしまうと癖になりますね。考えてばかりいるなら動いたほうがいいの。
動いているうちに、少しずつ頭の中がスッキリしていくことってあるのね。本当だからやってみましょう!私はそんなときは散歩に出かけたり、喫茶店で本を読むのです。
するとだんだん調子が出てきてスッキリしてくるから不思議。
動くことの苦手な人は、考えるよりまず行動なんですね。歩き始めたらもう何とか歩くしかないわけで、面倒だとも言ってられない。
同じ場所でじっと考え続けていると、よけいにまとまりが悪くなって気分も優れなくなってしまいます。
まず動く!
これは私自身もカウンセリングの中でもすごく役立つ療法です。^^
癖はなかなか修正できるものじゃないですね。
だけど、意識的に動くことはできますね。動いていれば何か新しい発見やひらめきや気分も変わっていきます。
でも動かないでいると、新しい発見というのはなかなか見つかるものではありません。どうしてもいつもの癖で堂々巡り、というのが関の山。
できたら活動的に、汗を流すくらい思いきり動くのもいいです。
その後はとってもリフレッシュします☆^^
専門的に言うと、頭の中でいろいろ考えすぎるのは最も健康に悪いとされています。なぜかというと、考えすぎるというのは元々ストレスが生じているからです。
ハッとしたひらめきは、考えて考えて出てくるものではなかなかありません。
見る角度を変えたり動いたり場所を変えてみたりしながら、「パッ」と瞬間出てくるものだから。脳がリフレッシュしているときに、要するに負担のかからない状態、リラックスしている脳の状態があって「ひらめき」というのが出てくるのです。
「私はどうしてこれが好きなんだろう」と考えながらやっていたら楽しみは軽減されます。理由を見つけようと頑張ることで、楽しむ事を忘れています。
「考える」ことに気を取られ、楽しむ事を忘れて「楽しむ意味は…」とか「十分に楽しめたのだろうか」といつも考えてしまう。
「私は楽しめていないし、面白くなかった」と思うのは、そんなことを考えて動いているからです。
人は没頭しているときに、「私、楽しんでいるかな?」と考えながら没頭する人はいません。でもよくそれを勘違いしている人がとっても多い。
動くことに無駄だと感じている人は、いつもそうした頭で考え行動しているからです。そのため、終えた後には脱力感のようなものが起こり、「やっぱり動かないほうが良かった」といつもの癖が出てきます。
それは、考えすぎる人の傾向です。
考えすぎるのは、いかに無駄を省くか、損をしないか、に集中することです。
結局一番無駄なことをやっているんだけどね。^^;
私もそうした傾向が強い人間です。^^;
なので意識的に動くことを自ら心がけています。本当の無駄は考えすぎることだと分かっているからです。
考えすぎるのとよく勉強をするではぜんぜん違いますからね。
頭をよく使うのはとってもいいことですから。
でも、「考えすぎ」がよくないということ。
さて、それを知ったら早速動きましょうか!
家でゴロゴロするのもいいけど、時には思いきって体を動かす!
そんなことを何度も何度もやっていくうちに、新しい発見がきっといっぱい出てきますよ。^^
動かないことには新しい発見も体験もないですね。*^^*
| くつろぐ |
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行き急いだところでどうなるの?
回り道して何がおかしいの?
バタバタ急いで何かをしても、嫌な汗が出てきて疲れてあっという間に明日になるよ。そんなに急いで一日過ぎてもいいことなんて何もありゃしない。
一生懸命駆り立てているものは私なの。
何かをしてなきゃ死にそうになる自分を止めるものは…
ちょっと待って、ちょっと立ち止まってゆっくり座ってよ。
あなたは一体どこへ行くつもり?
私ってそんなふうに生きたかったかな?
そうそう、まず深呼吸してここに留まりましょう。それからゆっくり考えればいいの。誰もどこにも私を駆り立てているものなんてないんだから。
いつだったかな…こんなふうに自分を駆り立てていたのは…
周りがみんな足早にバタバタと急いで見えていた頃がある。それね、本当は間違ってたよ。そう見えていたのは私の中で起こっていたこと。
立ち止まることを知らなかった頃ね。ただただ急いで生きていた頃。
いま思うと何年も急いで歳をとっていた?バカみたいだね。そんなこと誰も望んでなんかいなかったのに。勝手に自分で作り上げていた幻想。
あ、あのね、それってね、やってみたら分かるよ。
一度思い切り疲れて、ホトホト嫌になってバカバカしくなって、やるだけやってみたらそこに辿りつくことってあるの。
ちょっとひと休みして、それからまたゆっくり生きてみようよ!
そんなお声がかかって(自分の中で)、ずいぶん長かったなあ〜。
今でもゆっくり休んでいるよ。
ナマケモノの私になってそれなりに生きているよ。
もう止めたんだ。急いで生きることをネ。
私ね、休まずに生きてた頃の記憶ってないの。
どうしてだと思う?
ホラ、高速道路で走っているとき、景色なんてよく分からないでしょ?あまりにも速くて回りの景色がどんどん過ぎて行くでしょ?あれと同じ。
速いとね、記憶してる暇なんかないの。すべてがおぼろげで、見てきたものの余韻や味わっている暇なんかないんだ。
だからバカバカしくなってきた。もう止めようって。
私こんなに速く人生行きたくないモン。
私には私の速度があるって知ったんだ。そうしたら、すっごく楽になったよ。私には私にしか生きられない生き方があるって分かったの。
あのう、つまりね、ちょっとひと休みしてみない?ってこと。
疲れたよーって思ったら、突き進むことを一度止めたらいいの。
走り続けていたら、車だってブレーキが故障しちゃうよ。たまにはブレーキかけなきゃね。ブレーキはそのためにあるんだモン。
ついでだからもっと大げさに言うと、自分て何のために生きてるの?ってこと。
仏陀が言った言葉にこんなのがある。
仏陀が森のなかで修行をしていた。
噂を聞いてそこを邪魔しに来る者がいる。
「お前は何が望みなのだ」とその者は聞いた。
「私の望みはただ一つ、私を照らしてくれる太陽を君はさえぎっている。どうかそこをどいておくれ」
仏陀は修行をしていたというが、本当は休んでいるだけ。くつろぐというのはまさにそのこと。だって何も駆り立てるものなどないからね。
食べるために働き、疲れたら休む。ただそれだけなのに、働き続けて疲れ果てたらもうくつろぐことなどできないね。
だからちゃんと休もうね。
ちょっとひと休みは、くつろぐことなんだよ。
私はくつろぎすぎてナマケモノになってしまいましたが、それで何も問題など起きたことないですよ。
問題は自分が作り出しているのかもね。
私ね、きっとそうだと思うよ。
| 私と毛布 |
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人から見たらガラクタでも、どうしても私には捨てられないものがある。
それは大事にとって置こう。きっと捨てちゃいけないものだから。
大切にとって置いたのに、捨てられちゃったものがある。
その時私は哀しくて、心にぽっかり穴が開いたようだった。
とてもとても小さい頃、ふんわりとした石鹸のいい香りのする毛布が私の枕元にいつもあった。それを初めて見つけたとき、私は「それがほしい」と親に申し出た。その匂いに包まれて、一緒にいるととても心地がよかった。
「なんてやさしい香りだろう」
哀しいときも疲れているときも、その毛布に顔を擦り付けていると、すごく心が落ち着いて眠れた。
あれは魔法の毛布のようだった。
時々洗濯されて返ってくる。するとまたあのいい香りがプーンとしてきて、心がワクワクしてくる。
ある日母が、子供だった私には遠く感じたお店まで買い物に行った。
何を伝えようとして行ったのかは覚えてないけど、この毛布があったらあの遠いところまで行けると思った。
子供の私には大きすぎる毛布。
それを引きずって母の居るお店へ向かった。
母を捜した。
きっとかなり捜したと思う。
しばらくすると、後ろから母の声が聞こえた。
そこから私の記憶は止まっている。
毛布のない日は洗濯で乾いていない日だった。
その日はとても不安でしょうがなかった。「早く乾かないかなあ」と思いながら、ずっと眠れぬ夜を過ごしていた。
いつの間にか、その毛布はボロボロにすり減っていた。
それでも私にとってはかけがえのない大切な宝物だった。
その日、枕元に毛布のない日だった。
「まだ乾いていないんだなあ」と思って諦めるしかなかった。
でもその日は何かが変だと感じた。
その毛布はおととい洗って乾いたばかりだったから。
母にその話をした。「毛布はどこにいったの?」
「あら、もうボロボロだったから捨てちゃったわよ」
あれからどれだけ月日が経っただろう。
今でもその頃を思い出すことがある。あれは確かに魔法の毛布だった。どんなときも私に勇気と力を与えてくれた。優しく大きく私を包んでくれた。
もし今でも捨てずにいたら、きっと私は大事に大事にその毛布を持っていただろうと。私にとって、どんなものよりも大きな支えだった。可愛い絵が描いてあるわけでもない、黒と白の縞模様の地味な毛布だ。
あの肌触り、あの匂い、あの大きな毛布。
捨てたと聞いたとき、心臓がドキドキして、頭がボーっとして、布団の中でずっと泣いていたのだと思う。
大人になっても、そんなことをふと思うときがある。
ガラクタのようなものでも、それを大切にしたい気持ちを持ち続けていられる大人でいたいと。
私だけが持っている宝物。
絶対お金では買えないもの。愛着心を持つことを否定したくない。いつになっても子供の部分。大人になっても子どもの部分。それはみんな誰にもある部分。
捨てられないものがいっぱいある。無理に捨てることなんかない。その一つ一つに思いがあれば、いつまでも大切にしまって置きたい。
私を支えてくれた人を大切にするように、ものだって同じ。
今私は考える。
子供はそれが必要なくなったとき、きちんと自分で処分します。捨てるか閉まって置くかは子供に任せてください。
河合さんが話していたように、子供には子供だけの宇宙があるのです。それを決して壊してはいけないのですよ。
| こころの傷 |
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以前カウンセラーの資質についてコラムを書いたことがある。
私はどの職種にも資質は大きく関係していると思っている。カウンセラーだけに限ったことではない。
上司だったり、教育者だったり、医療に携わる人だったり、介護に関わる人や接待業など、人と関わる仕事をする人には資質や動機がとっても大事だと思うのです。
なぜなら、こうした職業の人たちは、人に影響を与えるという責任があるから。
人のことを思いやれない人が教育者になったらどうなるでしょう?命の重みを知らない人が医療に携わったらどうなるでしょう?
お年寄りを尊敬できない人が介護に関わったらどうなるでしょう?ありがとうございます、と素直に言えない人が接待業に関わったらどうなるでしょう?
今の日本は意図も簡単にやりたい職業に就けるらしい。「やりたい」、というのと「なりたい」はぜんぜん違う。
好きな職業として選ぶなら、「なりたい」と思うもの。〜のようになりたい、というのがごく自然です。でも、〜をやりたい、は、幅が広すぎて無責任な言葉に感じます。
公務員になりたい、と、公務員をやりたい、ではぜんぜん違うでしょ?
最近私が感じるのはこの「やりたい」が、無責任に広がっている傾向なのだと感じています。
希望や憧れや尊敬できるもの、感動できることや心動かされるもの、そうしたことは人が生きていくなかで、多大なエネルギーの源になります。
そのための資質は「なりたい」の中で作られていくのだと思うからです。
もし、本当に心から教育者になりたいと思っていたら、決して子供を脅かすことなどできるはずがありません。
もし、本当に心から医療関係の仕事に就きたいと思っているなら、安全をきちんと考え、人の為に役に立つ医療を考えることでしょう。
もし、本当に心から介護の仕事に就きたいと思っているなら、お年寄りに虐待などできるはずがありません。
このごく当たり前のことが、当たり前ではなくなってきているから、おかしくなってきてるのだと思います。
今回のコラムはずいぶん前置きが長くなりました。
私は人間なら、誰もが心に傷を負ったことがあるはずだと考えます。生きている限り、傷ついたことのない人などいないはずだから。
そのため、その傷を癒すことはとても大事です。癒すことで次に向かって生きていくエネルギーが作られるから。
子供が失敗して泣いているとき、傍で温かく見守ってくれる大人がいることで、子供の心は癒されます。
その癒しは子供にとって大きなエネルギーを生み出します。
大人になったとき、傷ついた心を癒すのは自分しかいません。それができなくなったとき、友達や夫、妻、恋人だったりします。それでも難しかったら、専門家にその傷をみてもらうのは大事なことです。
でももしその専門家が、心に傷を負っているとしたら、その傷を少しでも早く癒さなければなりません。それが先ほどから私が言っていることなんです。
もしずっと傷を抱えたまま、患者と向き合っていたとしたらどうなるでしょう?
一体どうして自分はこの仕事に就こうとしたのか、そこに戻って考えなければなりません。自分の心の傷を癒すことなく患者さんと向き合っていたら、心から添えることはできなくなります。
それどころか、癒されない心は憎しみや怒り、悲しみさえ患者さんに向けられることでしょう。(あなたより私のほうがずっと大変よ)と心のなかで思い続けるのです。これらは無意識の層で起こっていることです。
私は幾度となく、困ったものだと思われるカウンセラーの話を聞かされます。中には、カウンセラー自身が治療を受けるべきだと思われる人もいます。こんなことが当たり前のように起こっている現状です。
誰でも心に傷はあります。ない人はいないと思います。
そんな時、傷ついた心にちょっとでも触れられたら、ズキンとするでしょう。そのズキンが、あなたにとってどの程度だと思いますか?
そのズキンが、とっても大きくてどうしようもないくらい痛かったら、まずその傷を癒さなくてはなりません。それはどんなことをしても癒さなくてはなりません。
どの職業に就く人も、就いていない人だって、傷の度合いによって、大変なことになってしまうことだってあるのです。
最近の通り魔のような事件は、その傷の深さを物語っています。
自分自身の心の傷は時には人へと向けられます。その究極が他者への殺意となったと考えられます。
ただ、傷が深いからといってみんながそうなるというのではなく、それはごく稀です。元々もっている気質も大きく関係しているからです。
自分が〜になりたいと思ったとき、その動機と心動かされる信念は何か、と考えてみることは大事です。本当に心から沸き起こるものなのか、とりあえず、なのか、そんなところで自分と向き合うことができればいいですね。
人に影響を及ぼす仕事に就くなら、まず最初にしなくてはならないこと。それは、自分の心の傷を癒すことから始めなくてはならないと私は思います。
| 今年の春は |
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春といえばどんなイメージがありますか?
いろいろ連想してみたら、本当にたくさん出てくるものです。
そこで私が考えたイメージをちょっと書いてみることに。
・朝晩の冷え込みが和らいできた。
・花のつぼみがたくさん出てきた。
・日中の日差しがまぶしくなった。
・マフラーが必要なくなった。
・洗濯物がよく乾くようになった。
・小鳥たちがよく鳴くようになった。
・鍋料理があまり食べたくなくなった。
↑なんとも単純な私。^^;
などなどまだ続きそうですが、考えるといくらでもでてきそうです。^^
このイメージってどこからやってくるのか。
それは体験から出てくるイメージであり、こうした想像力は私たちの今までの体験から身についてきたものだと分かります。
心地良いものも心地悪いものもすべては体験からのイメージだということ。そうか、ということは、違う体験をしていけば、心地悪いものも心地良いものへと変わっていくのかもしれない。
なかなか面白そう。^^
春のイメージとして心地悪く感じる人は、例えば花粉症の季節。スキーの大好きな人にとっては雪が無くなってしまうことにちょっとガッカリだったり。
春を心地良いものだとイメージする人は、寒さが苦手な人、花を育てることが大好きな人、身軽さがいいとかね。
それにしても人によってイメージはずいぶん違っていたりするものですね。
でも花粉症の人にとっては春こそもっとも嫌なイメージがあるでしょうから、かなりの人たちは心地悪いイメージなのかな。
嫌なことに気分が向くと、人ってなかなか楽しめなくなってしまうものですね。例えそこに可愛らしい花が咲いてい.る、あるいはいい景色を眺めていても、花粉症がひどいとそれどころじゃないかも。
この花粉症は何とかしたいものですね。ホントに。^^;
私は今のところまだ花粉症には掛かっていないので、今のところ春は大好きです。でも大声では言えないですよ。
「アーア、春は気持ちがいいなあ〜♪」なんて大声で言ったら、顰蹙をかってしまいそう。
えーと、今回は春についコラムを書いています。
活動的になるのもこの季節。暖かくなると何でもできる気がしてきます。入学式も卒業式もこの時期だから、出会いと別れの季節でもあるのですね。
私は北の育ちなので、春と聞くとやっぱりワクワクしてきます。長い長い冬が終わりを告げるわけで、厳しい寒さから解放される春は何ともいえないですね。
春になって始めたこと。
ずっとやりたかった小物作りです。早速粘土を買ってきて、少しずつ道具をそろえてぼちぼちとやっています。^^
自分はなにが作りたいか…まずそんなところで戸惑っています。^^;
作りたいものはいっぱいあるのに、いざとなるとなかなか思うようにいかなくて、見よう見まねで、ああでもないこうでもないなど。
桜の咲く頃まで、少しは上達してるのかな?
今年はなぜか春が待ち遠しくて、ちょっとワクワクしている私です。
そしてたくさんの出逢いを楽しみに。
前回書いたコラムのように、毎年の春が貴重です。元気で春を迎え、今年も健康で過ごせますようにと。。。
| 歳をとる |
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自分が歳をとるということは、親も姉妹もおじもおばも歳をとるということ。
そんなの当たり前。
そんなこと分かっているのになんか不思議。
私はたまたま両親がまだ健在です。遠く離れていても、あそこで生きて暮らしていることで「当たり前」だと思っている。
そして突然いつか親しい人は去っていくだろう。
そんなこと分かっている。でも、そんなことは起きないと思っている自分がいたりする。
だがこの数年の間、自分もかなり歳をとり始めていると気づくようになった。それは姉の突然の手術、妹の抗がん剤治療、姉妹は闘っていた。そして父親の痴呆症の進行です。
私だけが健康であまり歳をとったと感じずに過ごしていた。
していうなら、忘れっぽくなったことくらいだ。
抗がん剤治療を受けていた妹から、健康に気をつけて、というメールが来る。ありがたい言葉です。一つの絶望から乗り越えた今の妹の姿に輝きを感じます。
苦難を乗り越える力はものすごいエネルギーだろう。
歳をとればとるほど絶望は大きくなってゆく。それを力に変えるエネルギーは自分の中にあると分かっていても、私は体験していない。
でも確かに私ではない人の、そうした姿を見てきた。
先日、長嶋茂雄さんのリハビリ姿を画面で見ました。
すごいと思ったのは、やっぱり彼はすごい人だと知ったことだ。「リハビリは裏切らない」と言った。
自分で希望をもつことで、力が出てくる。今度は走りたいからリハビリを頑張れる。そんな長嶋さんのポジティブな性格こそ、国民から愛されるヒーローなのですね。
もう歳だから、無理だから、そんなことを言ってたらよくなるものもよくならないだろう。私は本当にそう思います。
人にはものすごい治癒力がある。それは気力。その気力を持つためには、目標や、やりたいことがあること。そうした「希望」が大切です。
自分の歳をもう若くはない、という解釈はしている。
しかし、この歳だからできることがあると思っています。これから病気をするかもしれないし、精神面で落ち込むこともこれから多くあるだろう。
それでも、「まだ生きていたい」と思う人生を、これからも多く感じて生きていきたいなと思うのです。
それには、いつも自分と向きあえること、ごまかしたり人のせいにしたりしないこと、きちんと自分と向き合うことができれば、自分は何者かが理解できる。理解できないでいると、不安を抱えて生きていくことになる。
歳を重ね、希望をもって生きていくためには、こうしたことがもっともっと大切になってくる、と私は思っています。
さて、歳をとることを楽しもう!
見えなかったものが段々見えてくる。でも見ようとしなければ決して見ることはできない。
私はいつも人から教わることだらけ。そんな自分は幸せものです。
人一人の力は小さいというけれど、人一人の力は実に大きいと私は言いたい。
ぜんぜんまとまらないコラムですが、こんなことを感じていた私です。^^
| 文句を言う |
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今回のコラムはちょっと文句を言いたい。ちょっと愚痴を言いたい。そんなコラムはいかがかな?
言ったもん勝ち。今年はまだ始まったばかりだから、言いたいことは今のうちに言っておこう!言ってスッキリしてこの一年は楽しく送ろう!
最近ファックスって使うことありますか?私はほとんど使わなくなりました。というか、使わないほうがいいのだ。できればね。
一昔前までは、相手先に電話して、これから〜のことでファックスを送ります、という配慮があったものだ。
だが今ではどうだ。
知らないところから勝手に、頼んでもいないのに送ってくるのだ。
ムムムム…非常に不愉快この上ない。
というのも、ケチと言われるかもしれないが、ファックス用紙もばかにならない。ときには、五枚も六枚も勝手に送ってくる。子供たちを救おう、救済のため。ボランティアのようにいいことが書いてある。
なのに、その会社がやっていることは、無断で人の紙を使って勝手に何も連絡なく送ってくるのだから、失礼の何ものでもない。そんな気遣いもできない会社は最初から信頼できないのだ!
次に、宣伝カーだ。灯油や竿竹を売りに来る車がある。音には限度というのがある。宣伝して、いかにいいかを説明しても、スピーカーから流れる必要以上のうるささに神経がピリピリする。
はるかに限度を越えた音である。
どんなことがあってもそんな会社のものなど買うものか!って思います。赤ちゃんが寝ているかもしれない。病気を抱えている人が居るかもしれない。
そうした想像力の欠如からくる無神経な宣伝カー。
私はとっても腹が立ちます。
次に、最近の中国事情について。
先日ある番組で、中国人の子供たちが、親から必要以上のスパルタによって心が病んでいるという話があった。
まさにこれから中国はどんどん市場が活性化していくことだろう。発展を遂げるだろうと思う。
しかし、その裏で子供たちが病んでいる。
小学生の低学年の子供たちが、勉強に関して親から異常な期待をかけられ、間違うとひどくののしられるのだ。
間違いや失敗は決して許されないという緊張感に、子供たちは泣きながら先生に訴えているのだ。そこで、先生が親と子供とを向き合わせ、今言いたいことをここでお話してくださいという場を設けることにした。
子供は泣きながら訴える。
「どうして怒るの?頑張っているのにどうして褒めてくれないの?」
あまりにも小さな体は泣きながら震えている。それなのに親たちのほとんどが子供に向かってこう話すのだ。
「あんたのためを思って怒っているの。怒られたくなかったら、きちんとやりなさい!きちんとやらないから怒るのでしょう!私たちを安心させてくれれば何も言わないわよ!」
子供はいったい誰のためのもの?子供のためって言いながら、自分のためでしょ?子供にとってどれほど不安であるか、どれほど傷ついているか、そうしたことに心が向けられない親たち。
安心させてあげるのは親ではないの!?
金持ちになりたい、裕福になりたい、楽な暮らしがしたい、そうでしょう?それは子供のためではない。自分のためだ。
本当の子供の幸せを願うなら、愛してあげてください。
褒めてあげてください。抱きしめてあげてください。自分たちが頑張ればいいことです。
子供に自分たちの幸せを保障してもらうつもり?そのために生んだのですか?子供の心を踏みにじる親たちの言動に、私はあきれ返って言葉も出ません。本当に怒ってます。腹が立ちます。
日本では心の病んだ子供たちがものすごい数で増加しています。
それは、贅沢の象徴です。
楽をしたい、もっともっと、面倒くさいことはしたくない、お金があればすべて解決する、そうした大人たちの貧困な心が、今の子供たちを作り上げているといっても過言ではない。
中国の発展のスピードが、あまりにも速すぎるため、その変化について来れないものたちが、今必死に着いて行こうとしがみついてる。
その結果、今の日本のように、あるいはそれ以上に、子供たちは犠牲者となる。
怒らずにして、次を語ることは何もできない。まずは「喝!」を入れさせてもらう!私は非常に怒っている。
子供たちに、悲しみと辛さの涙を流させる大人たちに、私は断固として許すことはできない。その子供がもし明日死んでしまったら、親はその子供に何を感じるでしょう?褒めてあげられなかった自分を嘆くでしょうか?
その時はもう遅すぎるのです!
言いたい放題言わせてもらいました。
あーっスッキリした!
言いたいことを思いきり言えるとなんて気持ちがいいのでしょう。^^
相手の身になって考える。
それができれば平和は必ずやって来ます。ただそれだけのことです。
でも、それができないのが人間のもっとも愚かなところです。
哀しいかな・・・
| 今年の目標? |
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今年初のコラムです☆
月に2回の更新をと思いながら、なかなかおぼつかないコラムとなっております。^^;今年はもっと定期的に更新できるよう、気合を入れていきますので、今年もどうかどうか一つ、こんな私ですが、よろしくお願いいたします。m(_"_)m
毎年今年の目標となるものを掲げながら、なかなか実行できないのが恥ずかしい。何でしょう、時間に追われながら過ごす毎日に、目標なるものを忘れがちになってしまいます。
暮れには来年はこういきたい!と宣言するのが私の恒例でしたが、今回はかなり小さいところで目標を掲げてみました。
その一つは、大雑把な性格のところをもっと豆にできるよう「心がけていく」ということでしょうか。
実は簡単なようで私にはなかなか難しいことでしてね。^^;
特に支障はないものと思っていたのですが、ここにきて、いろいろ難問が出てきた次第です。今年はやることが例年よりも多い年となりそうです。そんなこともあって、毎日コツコツ豆に、というのが大きなキーワードになったのであります。
元々そうしたことが起用ではないため、性格改善のためにもいい訓練になるのではないかと。
いいものはもっともっと取り入れていきたい、というのが私の「生きる」ことへの方針でもあります。それは起用ではないからです。不器用な生き方しかできそうにない自分が、少しでもちょっとでも何か改善できるものがあるとしたら、やってみよう!というわけですね。^^
へそ曲がりな自分だったのが、かなりのところでここに至るまで改善できたことも自分で驚きですが、さすがに必要に迫られると、変えないわけにもいかなくなってくるもので、これが「時期」というものなんだなあと思い、喜んで受け入れることにいたしました。
私は「人は変われる」ということを、心の底から信じて止みません。
CMでも流れているように、「私が証明です」といったところでしょうか。^^;
でもそれだけではありません。
本当は人は毎日毎日変わっているし、変化しているものです。そして変えようと思えば自分次第でいくらでも変われるということを人は知らなさ過ぎです。
もっと簡単に言うと、見えているものだけしか信じることができず、見えないものを見ようとしない、いえいえ、霊のことではないですよ。^^;
自分は考えられない、といって遮断してしまい、それでお終い、では変われるはずもないということです。
私は本当に何も偉そうなことをいえる人間ではありません。
間違いは起こすし、失敗もするし、よく悩むし、気が小さいしね。^^;
でも遮断はしない!遮断してしまうと視野が狭くなるから。視野が狭くなると物事がよく見えなくなるから。
自分自身を見ているとき、大切なことって何が弱点かな?ということを知っていること。私はそう思います。
その弱点を克服することではない。その弱点を知っているということ。そこがとっても大事。その弱点を知っていれば、無理しても辛いということを知っているから、決して間違った方向へいくことはないのです。
ところが、これが私の弱点だからしょうがない、となってしまうとまた違う。
克服しなくても、その中でできることがあるのです。それは工夫次第でいくらでも。
遮断は、「もう終わり」。
それ以上何も頑張らなくていいということ。頑張るにもいろいろあるよね。どうしても時間に追われてやらなきゃならないこと、これ頑張るしかない。でも、時間があって工夫することで少しずつ楽しみながらなら、何とかできると思わない?
要するに、知恵ですよね。
できないのじゃない。人と比べて自分が…になるから諦めちゃうの。「私はそれが苦手」でいいの。ならば、自分はこうでいこう!
そうした工夫によって自分らしくできていることを、私は「個性的」と略します。ある意味みんなが個性的なんだけどね。^^
二つ目の目標というのが、もっと外に出ることです。というのも、なかなか私のような仕事は好きな旅行が難しいということもあって、せめて絵を観に行ったり、コンサートを聴きに行ったり、ということはできるだろうということ。
耳や目をもっと養いたいということでもある。
感動したり、新しい趣味を持つことにもいい影響があるのでね。
そんなところで目標を掲げてみたわけです。^^
ところでHPの絵の素材は、最近自分で描いたものが多いのですよ。元々好きで描いていたこともあって、思い切って作っちゃおうかな、ということで、はじめてみました。*^^*
そんなところも楽しみに、これからの「心の扉」にご期待あれ☆
| 続・日記を書いてみる |
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前回から引き続き、今週は「日記から得られる活用法」について書いていきます。
日記を書くことでのメリットは本当にたくさんあります。
その中からもっと詳しくメリットについて説明していきたいと思います。
●毎日書くことで、自分の歴史が刻まれます。(それは自分の物語)
毎日の積み重ねは、5年後、10年後にその日記を読んでみると、自分がどんなことをして、何を考え生きていたのか、という物語があったことの事実を知るでしょう。
ここではこんなに懸命に生きていたこと、恋をしていた自分、挫折していた自分、さまざまな出来事を通して、自分なりのシナリオを生きていたのだということ。そうしたことが自身の物語として貴重であったことを。
そしてこれからの自分はどんな物語を生きていくのだろうか、というところで、位置の確認と、これからを考えていくための道しるべにもなるのです。
●どんなことが自分に起こっているのかがよく分かります。
今日は書くことがない、なぜだろう?毎日が単調だから?特に変わったことがないから?そうか、仕事尽くめだったからだ。趣味を楽しんでいないからだ。人と会っていないからだ。
日記が長いときは、何かいつもと違うことがあったらしい。それがいいことなのか嫌なことなのかは別にね。そんなことから今自分の状態がなんとなく「こんな感じ」が分かるよね。
●自分の生活パターンを客観的に理解できます。
前文から分かるように、自分の生活パターンに気づくはず。単調な一日を過ごしているなら、それは自分で作り出しているもの。
もし楽しいことがちょっとでも一日にあると、そんなことでも書いてみたくなるし、不満があればだらだら愚痴など書いてみたくなる。
「私は楽しんでいる」「私は退屈してる」など、自分を客観的にみることができるのね。
●自分らしさの理解につながります。
もし今自分が辛い状態を過ごしていることに気づいたなら、楽しいときはどんなだったかを考えてみるといいですね。
自分はこんなことが心地良かったとか、うきうきしていたとか、スムーズに行っていたなど、ちょっと考えたら出てくるよ。それってきっと無理をしていないときの自分。あるいは環境が良かったからなのかな?
自分に合っていないことをしていると、結局辛いはず。そんなときにふと、自分らしさに気づくと思います。
●傾向と対策が日記の中から得られます。
ということは、自分は頑張りすぎて、つい無理をしてしまう傾向があるのだと知ります。それでは期限を決めてやるだけやったらのんびりだらだらしよう。家事や仕事をちょっと早めに切り上げて、好きな映画を観たりショッピングに出かけてみよう。
環境が合わないなら、引越しでも計画してみよう。職場を変えてみよう。
毎日充実しているはずなのに疲れが取れないのは、はしゃぎ過ぎ?どうやら突っ走る傾向が強いのかも。
ならば、もっと計画的にスケジュールを立ててみるといいかな。
●自分がどう変わっていくかが見て取れます。
変化を加えて良くなることで、心にちょっとした余裕がでてきます。それは実体験として感じられるので、自分自身にどう変化が起こったかがはっきり理解されます。
状況や環境が変われば、また新しい悩みは出てくるものです。でもそんなときこそ日記は大活躍です!
過去、現在の日記の中から、自分らしさを再認識し、現在の状況を客観的に捉えることができるようになるのでね。
●文章にすることで、複雑化していた出来事がまとまります。
日記は一日の出来事を書くだけではありません。
物事が複雑化しているときは、今起こっている状況と心のモヤモヤを文章にします。どうしたらいいのか分からない、腹が立って仕方がないなど、何でも書き出してみましょう。
そうすることで、少しずつ頭の整理ができてきます。
モヤモヤも文章にすることでちょっとスッキリ!こういうことで私は腹が立って仕方がないのだ、という認識が得られ、どうしたらいいかがみえてくるでしょう。
どうですか?日記っていいでしょ♪
何一つデメリットになることがないですね。
日記は自分史のようなもの。誰かが見るものではありません。だから自由に好きなように楽しんで毎日書き続けてくださいね。
| 日記を書いてみる |
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日記と聞いて何を連想しますか?
「続けられない」「どうせ三日坊主」「何の役にも立たない」など、あまりいいイメージはなさそう。
私は日記を毎日書く習慣を、クライアントさんにお話します。
なぜ日記がそんなにいいのか、ということを説明するのですが、頭では理解していても、なかなか実行できる人は約半数に限られてしまいます。
どうしてかというと、やはり面倒くさいこと、毎日となるとつい忘れてしまうから、特に書くことがないから、嫌なことを思い出すのが辛いから、等などです。
んー確かにそうですね。
日記を書く習慣がない人はそのように考えて躊躇するものだからね。日記はもうすでに終えた今日一日のことを思い出して書く作業です。
そうなると、それを思い出すのさえ面倒になって当たり前。よくよく分かります。
私がなぜ日記を書くのがいいか、ということを、今回と次回に分けて、なるべく細かくお話していこうと思います。
実は私も面倒くさがり屋で三日坊主なところがあります。
そのため何かを始めても、一向に長続きしたためしがありません。といっても過去のお話。
捉え方が変わっていくと、少しずつ取り組む姿勢もにも変化が出てくるもので、以前できなかったから私には向かない、と簡単に諦めることはないと私は思います。
人は嫌なことがあったときストレスになります。腹が立つと、その記憶は案外長く覚えているものですね。
そのメカニズムって結構面白いのです。
嫌なことや不快なことって、記憶に留めて置くことにはしっかりしているんです。嫌なことなのにね。
これはどうして起こるかというと、不快なことは人に限らず動物はしっかりそのことを記憶しておくことで、また同じようなアクシデントに遭わないように自分を守るためでもあるからですね。
危険を察知する本能ということですね。
それはよく分かります。しかし人間の場合、それだけではなさそうなのでここでお話しておきます。
特に子供時代において、不快な出来事が多く、辛い時期を送ってきた人は、全体的にとてもマイナス思考に物事を捉えてしまいがちです。このことは心理学でもはっきりデーターが出ています。
そのため、楽しいことや嬉しいことも時には不快なイメージとして捉えることが多いのです。
「楽しんではいけない」「喜んで浮かれてはいけない」「騒いではいけない」「調子に乗ってはいけない」など、自分に対して常に肯定できないので、何をやっても心から喜ぶことが出来ないのです。
カウンセリングに来るおよそ半数近くの人は、こうしたイメージを自分に持っています。それは、分かりやすく言うと、油断して楽しんだ子供時代をあまり体験していないことが大きな原因です。
それと日記がどう繋がるかというと、それは後ほど。
今回は、そうした人たちだけに限った説明はしませんが、なぜ日記がいいかを話していくことで、誰もがいいヒントを得られると思うのでお話していきます。
いいことには以下のメリットがあるんです。
●毎日書くことで、自分の歴史が刻まれます。(それは自分の物語)
●どんなことが自分に起こっているのかがよく分かります。
●自分の生活パターンを客観的に理解できます。
●自分らしさの理解につながります。
●傾向と対策が日記の中から得られます。
●自分がどう変わっていくかが見て取れます。
●文章にすることで、複雑化していた出来事がまとまります。
出していくときりがないほどまだまだたくさんあります。
自己分析を上手くできる人は、このように日記を書いている人がダントツです。お金も掛からなくて時間もそれほど掛けず、すぐにできますね。
人はある意味毎日特別な日を生きています。
まったく同じ日というのは一日もありません。「どうせ明日も同じようなもの」と考えるのは、自分の思い込みです。
実際人の気分は毎日変化していますのでね。
毎日書いていれば、同じような日でも心が変化していることに気づくはず。そんな積み重ねこそ、常に明日の希望や目的へつながるということを知ってほしいと思います。
何か特別な日にだけ書くのではなく、毎日書くことに意味があります。
人の記憶はかなり曖昧なものです。辛いこともいいことも同じように書き続けること。そして特に変化がないと思っても、少し考えてみる。
「今日こんなことを感じた」とか、「少し気分がいい」とか、「だらだらしていた」でもいいのです。何もやらなかったから何もないのではありません。何もやらなかった自分はこんなふうに感じた、という思いは何かかしらありますね。
ちょっとだけでも書いてみる。それを毎日続ける。そして一番大切なことは、どうしたら自分は長続きできるだろうかを考え、自分に合った日記帳を選び、どんな時間に書くのがベストか、自分の性格と気性をある程度知った上で始めるといいですね。
どうせ書くなら「楽しむこと」を忘れずに。
一日の中で必ず歯を磨くように、いつの間にか日記も習慣となるでしょう。
いい習慣はどんどん身につけましょう!
日記を書くことで、マイナスになることは何一つもありません。
次回は日記から得られる活用法について書いていきます。
| エイズと人命の危機 |
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秋もずいぶん深まってきましたね。
落ち葉が色づき始めたのを見て、しみじみ四季のある日本ていいなあと感じます。
先日、2001年に放送していた番組をやっていました。
ものすごい数の人たちが、エイズに感染しているというタイからの報告でした。子供たちはエイズに感染しています。その感染によって見放された子供たちの施設に、日本人のボランティアが参加しています。
日に日に弱っていく子供たち。
その姿を見ていて涙が止まらなくなりました。
こんな小さな体で、まさか自分が短い命を終えるなんて、そんなこと考えて今を生きてはいません。
食欲を失い、すっかり体力が落ちてしまった7歳の女の子。早く元気になりたい一心で、入院することになりました。前回は入院してすぐに元気になったことを覚えていて、わくわくしながら病院へ行きました。
しかし、すでに血液にはカビが入り込んでいて、治療の余地もありません。どれほど辛かっただろうかと。
それから数日後に彼女は亡くなりました。
双子の妹もエイズにかかっています。それからお姉ちゃんの後を追うように、数週間後にお姉ちゃんの元へと旅立っていきました。
その撮影をしていたのが、先日ミャンマーで亡くなった映像ジャーナリスト長井健司さんです。番組のスタジオで、その頃の様子を熱く語っていました。
この番組が2001年とはいえ、エイズは今もって深刻な状況であることは変わりません。日本ではエイズ感染の報告はあまり聞きませんが、確実に増えているということです。
日本政府はこうした危機感に対しての対応や、現時点で何が危険であり、何を深刻として捉えているのか、ということを国民に向けてなかなか発表してくれません。
私たちが知っていなくてはならない温暖化問題については、ここ数年勢いを増して叫ばれるようにはなりましたが、ここに来て、という気がします。エイズもそうです。
若者たちがこうした深刻な事態にならないためにも、きちんとした報告はしていかなくてはならないし、その危機感や重大性についてももっとマスコミが取り上げなくてはならない。
なのに、ニュースやマスコミで取り上げられることは、偏りすぎだったり、同じような事件ばかり掛かりっきりになっている状態です。
血液による感染も重大なテーマですが、性交渉による感染も同じくらい重大なテーマです。乱れた性交渉による感染者は、これからもますます増幅していくことでしょう。
いいか悪いかということ以前に、人命の危機感に対するモラルはきちんと教育していかなければ、日本もタイのようにもっと多くの子供による被害が増えていくことは確実です。
子供の教育以前に親としての教育も然りです。
タイではやむを得ず親が子供を見放すケースは多くあります。しかし、日本では意図も簡単に親の身勝手さゆえに子供を見放すケースが非常に増えている。
片やエイズという生命の危機、片や親の未熟さゆえに子供の生命を脅かしているという危機。形は違えども、子供たちはいつも犠牲者です。
私はかなりの割合で子供たちのことをコラムにしています。
そこを知っていただくことで、大人たちがいったい何をやっているのか、自分自身についてもっと気づいてほしい。
私も偉そうに言える立場ではないかもしれないが、できることの努力はし続けています。最低限のモラルというものが失われつつある現状に危惧を覚えながら。
そしてこれからも語り続けていくつもりです
| 安心安全 |
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最近相撲界では不審な出来事が続いていて、何かパッとしないですね。
といっても、相撲界だけに限ったことではないですが…
よく「まとも」という言葉を聞きますが、今はこの「まとも」な人がずいぶん少なくなっているようで、「あんたもか」と、頭を傾げたくなるんですが。
正直かなりガッカリしているこの頃です。
人間そんなに立派なことをしなくてもいいから、「まとも」でいてほしいと望みます。そうね。では「まとも」というと何だろうか、ちょっと考えたらとても単純な言葉が出てきました。
当たり前に人を殺してはいけない、暴力はダメ、弱いものいじめは卑怯、ということかしらね。それだけのことなんですけどね。
でもそんなことを守れない人が結構いるんだから困っちゃう。
だったら子供の教育なんて難しいに決まってるよね。
当たり前のことが普通にできなくて、教育がどうのこうのといっても、その教育者側の不祥事があちこちで起こってるわけです。
守るはずの子供に危害を加え、今では当たり前のようにニュースで見聞きする子供たち。どんな風に世の中を見ているのだろう。
子供はまず最初に親を全面的に信頼して育ちます。子供が親から離されると不安そうな顔をして泣きます。どんな親でも子供にとっては信頼すべき存在です。
その信頼を失わせるのは本当は容易ではありません。そのため、理不尽な親に対して子供は一生懸命その親に愛されようと願うのです。
大人のように子供は簡単に信頼を手放しません。時には行き着くところまで行き着き、親の犠牲にもなります。
そんな痛々しい子供たちは、大人の裏切りによって深い心の傷を負うでしょう。
なんともやりきれません。
相撲界の話も政治の話も強いては子供の教育と同じで、「裏切らない」ことを前提に事を運んでいかなくてはならない。
朝青龍のあの出来事は何だったのか、相撲の稽古は暴力で人を殺すのか、政治家は戦争を望んでいるのか、年金は支払ってももらえないのか、そうした出来事は子供たちの教育とリンクしている。
「安心安全」は一体どこにあるのだろう。
その根本で当たり前のところまで堕ちていったのだ。
昔はいかにも悪そうな人が犯罪を犯して「困った人もいるものだ」と驚いていた。しかし今では身近でごく普通の人が、怖いことをしたりするのでたまったものではない。
その証拠に傍から見て、健康そうに映る家族に悲劇が起こっている。「そんなばかな」と思わず疑いたくなるような。
「安心と安全」は、人間がこの世に存在したとき、始めに身に付けなくてはならない欲求だった。何万年を越え、それは現在もなを、その欲求は満たされないままに進化もできていない。
これほど世の中が便利になっているにも拘らず。
それに比べ、ネイティブアメリカンの人たちはそれを成し遂げている。
何世代先の子供たちに向けたもの作りや環境を考え、今何ができるかを見通して生きている。
それはもっとも人間らしい知恵ではないだろうか。
進化とはそういうものではないのか。
子供たちに「安心安全」を提供できるのは大人たちだけです。
もしその進化を遂げたなら、地球の未来は想像以上の美しい星になっているはず。


